今回は、日本の女性教育に尽力し、津田塾大学を創立した津田梅子の功績をご紹介する。
■生誕からアメリカ留学まで
1864年(元治元年)、現在の東京都新宿区で佐倉藩(現在の千葉県)の藩士であった父・仙と母・初子との次女として生まれる。
当時、北方開拓使(行政機関)が募集していた女子留学生の企画に、嘱託となっていた父の意向で応募。1871年(明治4年)、岩倉使節団一行としてアメリカへ出発。初の女子留学生であり、参加者は梅子を含め5名。梅子は最年少の6歳であった。
ワシントンのランマン夫妻に預けられた梅子は語学やピアノに精を出したという。1873年にはフィラデルフィアでキリスト教の洗礼を受け、現地で初等・中等教育を完遂。11年間をアメリカで過ごし、1882年に帰国する。
渡米直後の梅子(Wikipediaより)
■帰国から再度の留学
幼少期をアメリカで過ごした梅子は日本語に疎く、日本文化を受け入れることに時間がかかったという。日本では流暢な英語力を生かし、通訳の仕事や華族を対象とした私塾の英語教師として活動した。
梅子は華族文化に馴染めなかったとされ、この頃から日本の女性教育の必要性や地位の向上の思いを募らせる。再度の留学を決意した梅子は1889年(明治22年)み再び海を渡った。
■ブリンマー大学へ
梅子はフィラデルフィア郊外にあるブリンマー大学で生物学を専攻した。在学中には論文の執筆や日本人女性留学生のための奨学金制度の設立に尽力。ブリンマー大学時代に受けた少人数教育の経験が、日本の女性教育に対する情熱を確かのものとしたとされる。

現在の津田塾大学小平キャンパス(Wikipediaより)
■帰国から塾の設立
1892年に帰国した梅子は、華族女学校や女学校での講師を努めながら女学生に対する援助を行った。1899年の法整備に伴い翌年に職を辞し、女子英学塾の開校。
女子教育の先駆的機関として一般女子の教育に大きな可能性を示した。開校当時の入学者は10名であり、1903年の第一回卒業式では8名の卒業生を送り出した。
■晩年とその後
女子教育に心血を注いだ梅子は、1919年に塾長を辞任。十年後の1929年(昭和4年)に死去。享年64。
梅子が創設した女子英学塾は、関東大震災や第二次世界大戦を経た1948年に津田塾大学として設立認可を受ける。津田塾大学は現在も存続し、梅子の建学精神は受け継がれている。
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