激しい砲撃により損傷した会津若松城。
激しい戦闘の末、両軍ともに多数の戦死者を出しましたが、新政府軍は会津藩士の遺体についてはその埋葬を禁じ、野ざらしのまま犬やカラスの食い荒らすに任せるという辱しめを与えたとか。
そんなことをされれば、今なお会津の人々が薩長(現:鹿児島県&山口県)に対して複雑な思いを抱いてしまうのも無理からぬところでしょう。
しかし近年、この定説を覆す史料が発見されたそうで、真相はどうだったのでしょうか。
■むしろ遺体を放置したくなかった新政府軍の事情
平成28年(2016年)に発見された『戦死屍取仕末金銭入用帳(せんしかばねとりしまつきんせんにゅうようちょう)』によると、会津藩の降伏から間もない明治元年(1868年)10月3日、新政府軍は敵味方を問わず遺体の埋葬を命じています。
会津藩の降伏した9月22日から11日後のことであり、残敵掃討など占領直後の混乱を考慮すれば、そこまで不自然な日数でもありません。
それから作業を続けること2週間、10月17日には567名分の遺体を64か所の寺院や墓地へ搬入。
かかった埋葬費用は74両(現代の価値で約450万円)、人件費もきちんと出しており、384名の作業員に対して一人2朱(約7,500円)の日当を払っていますから、2週間で約4,032万円を支出した計算(※)になります。
(※)約7,500円×384名×14日間=約40,320,000円

討死した会津藩士らの供養は続く(イメージ)
埋葬作業はその後も続いているため、さらにコストがかかっていることになりますが、そこまでして遺体の埋葬を行ったのは、腐敗した遺体による伝染病の蔓延防止など、衛生面の理由が最も大きいものの、やはり会津の民心を無用に逆なですることも避けたかったはずです。
「じゃあ、遺体が放置されたという会津人の記録や証言は嘘だと言うのか!」
いえ、そういう訳ではなく、実際には遺体が膨大なため埋葬作業が間に合わず、年を越しても野ざらしのままだった遺体も残念ながらあったのでしょう。
(もちろん、会津の人々も自前で遺体を埋葬したでしょうが、それでも他の遺体を見て「あれは見せしめとして、埋葬を禁じられたのだ」など誤解した可能性も考えられます)
ただ、決してそれは上野戦争(新政府軍と彰義隊との戦闘)で行われたような意図的な遺体の放置(遺体の回収に敵をおびき出すための罠)ではなく、人心を慰撫するべく(何よりも伝染病の予防に)埋葬を急いだものの、数が多すぎて手が回らなかったのでした。
また、既に埋葬されていた者たち(遺体)が翌年に改葬(きちんと葬り直すこと)されている様子を見て「あれはきっと、今までずっと放置されていたに違いない」と誤解した可能性も指摘されています(野口信一氏)。

迫りくる新政府軍に抗戦する会津藩士ら。
今なお根強いと言われる「会津の怨み」。その原因は他にもたくさんあるようですが、それが誤解であるなら解けるに越したことはなく、一日も早く日本国民の誰もが真に打ち解け合えることを願ってやみません。
※参考文献:
日本史の謎検証委員会 編『幕末通説のウソ』彩図社、2019年3月
野口信一『会津戊辰戦死者埋葬の虚と実』歴史春秋出版、2017年11月
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