ただ、女性についてはその多くが名前も記録されていないことが多く、男性に比べて「あぁ、美しいね。
詳細不明の美女。彼女はどんな人生を歩んだのだろうか
せっかく美しいのに、それではもったいない。せめて分かる方だけでも、調べて紹介したいと思います。
今回のヒロインは「鹿鳴館の華」と謳われた陸奥亮子(むつ りょうこ)。彼女はどのような生涯をたどったのか、さっそく見ていきましょう。
■幕末維新の志士・陸奥宗光と結婚
陸奥亮子(以下、亮子)は江戸時代末期の安政3年(1856年)11月、旗本・金田蔀(かねだ しとみ)の庶子として江戸に生まれました。
庶子とは正妻でない女性(側室、妾、愛人など)が産んだ私生児で、正妻が産んだ嫡子(ちゃくし)に比べて立場が弱いことがほとんど。
幼い頃から美貌で知られた亮子は正妻から妬まれたのか、明治の初め(明治元・1868年~明治4・1871年)になると、13~16歳で東京府新橋・柏屋の芸者に出されてしまいます。

芸者時代の亮子(イメージ)
実の母親が生きていればそんなことはさせないでしょうから、恐らく亡くなっていたのでしょう。あるいは、金田家から援助を断ち切られて困窮した母親を養うためだったのかも知れません。
ともあれ芸者となった亮子は小鈴(こすず。
(美人で客をたくさん引っ張って来られるから、それが許されたのかも知れませんが)
そんな亮子は明治5年(1872年)5月、当時浪人中であった陸奥宗光(むつ むねみつ)と結婚します。
宗光は紀州藩士の家に生まれ、幕末は尊皇攘夷の志士として各地を奔走。坂本龍馬(さかもと りょうま)をして「二本差さずに(武士を辞めても)食って行けるのは、俺と陽之助(ようのすけ。宗光の通称)だけ」と言わせしめる才覚を発揮しました。

志士時代の宗光(陽之助)。日本の未来を切り拓くべく、時には白刃も潜り抜けた。Wikipediaより
明治維新が成った後は兵庫県知事や神奈川県令、地租改正局長などを歴任するも、薩摩・長州による藩閥政治(政権の私物化)に憤り、官職を辞していたのです。
「これからは、薩摩だ長州だ、官軍だ賊軍だなどと言わず、すべての日本人が一致団結して欧米列強に立ち向かわねばならぬ。そのためには、みなが主体性をもって政治に参加できる体制を作らねばならぬ!」
亮子はそんな宗光の高い志と情熱に惹かれたのでしょう。時に亮子は17歳、宗光は29歳。一回りも違う歳の差婚ですが、日本の未来を切り拓く志にあふれた宗光の魅力は、それを埋めて余りあるものでした。
■離れ離れの日々
結婚の翌明治6年(1873年)には長女の清子(さやこ)も生まれ、幸せな家庭生活を送っていた亮子たちでしたが、明治11年(1878年)に宗光が逮捕されてしまいます。
容疑は政府転覆活動の共謀、明治10年(1877年)に西郷隆盛(さいごう たかもり)らが起こした西南戦争に加勢するべく活動していた土佐派の不平士族(林有造、大江卓ら)と密通していたことが発覚したのです。

西南戦争の最終決戦。「鹿児島城山戦争之図」
「悔やむまいぞ……これも藩閥政府を打倒するため、西郷先生の義に応えぬ訳には行かなかったのだ……」
「あなた……!」
まったく、夫が夢追い人だと苦労させられるのは今も昔も変わりませんが、動揺する亮子を戒めたのが、姑の伊達政子(だて まさこ)。
「人は艱難に遭はなければ真の人間にはなれません。亮子も今度のこと(宗光の入獄)で能く心を研(みが)かねばなりません。あれが為めには今度が大の薬です」ひとたび天下に志を立てたなら、一度や二度の入獄くらい、通過儀礼ではありませぬか……生粋の武家育ち、昔気質の政子は肝の据わり方が違っていました(※前年に亡くなった舅の伊達宗広も、生きていればそう言ったでしょう)。
「ま、あの子も一回り大きく成長してくるでしょうから、私たちはしっかりと家庭を守って帰りを待つとしましょう」
「はい、お義母様!」
やれやれ、今時の若い者ときたら、大した覚悟もなく成功だけを夢見るんだから……そんな老人たちのぼやきが聞こえて来そうですが、ともあれ亮子は政子と共に獄中の夫を支え続けたのでした。
ちなみに、宗光に下った判決は除族(じょぞく。士族の身分を剥奪)の上で禁錮5年のところ、特赦によって4年で出獄。亮子とやりとりした手紙の数々は、夫婦の深い愛情を現代に伝えています。
かくして明治15年(1882年)に出獄した宗光ですが、伊藤博文(いとう ひろぶみ)の勧めで明治16年(1883年)から明治19年(1886年)にかけてヨーロッパへ留学することになりました。

「失うにはもったいない逸材じゃからのぅ」宗光にヨーロッパ留学を薦めた伊藤博文。Wikipediaより
「西欧の実情を見れば、君も彼らに学ぶところ大と解るであろう」
帰って来たと思ったらまた出て行った……亮子の嘆息は察してあまりあるものの、これもまぁ成長の糧……快く送り出すのが妻の務めと心得て、健気に家庭を守り続けます。
この時もまた、夫婦でたくさんの手紙をやりとりしたことは言うまでもありません。
■社交界の華となるも……
さて、ヨーロッパ留学から宗光が帰国、政界に復帰すると、亮子夫婦は社交界デビューを果たします。
当時、伊藤博文や井上馨(いのうえ かおる)らは日本の欧米化を進めることが不平等条約を改正できる有効な手立てと考え、その一環として建設された鹿鳴館(ろくめいかん)に日本の紳士淑女を集めたのです。
「本当にこんな猿芝居で上手くいくのかはともかく……お召しとあれば、仕方ありませんね」

社交界の華として絶賛された陸奥亮子。Wikipediaより
生来の美貌と才智、そして芸者時代に培った優美な物腰などによって外国人から好評を博し、「鹿鳴館の華」と謳われたのでした。
明治21年(1888年)には駐米公使となった宗光に同行してアメリカへ渡り、現地でも社交界の華として名声を得て、夫の外交政策(陸奥外交)を大いに支えたと言います。
しかし幸せは永く続かないもので、明治26年(1893年)には一人娘(※)の清子を喪い、明治30年(1897年)には夫・宗光と死に別れました。
(※)宗光の先妻・蓮子(れんこ。既に死没)が産んだ長男の陸奥廣吉(ひろきち)と次男の陸奥潤吉(じゅんきち)は健在。
宗光の死後、彼が祇園芸者ともうけていた金田冬子(かねだ ふゆこ)を引き取って養育。
そして亮子自身も明治33年(1900年)8月15日に病死、45歳の生涯に幕を下ろしました。冬子は廣吉の養女として引き取られますが、明治37年(1904年)に亡くなります。
■終わりに
その美貌で人気を博し、陸奥宗光の志を支え続けた亮子の生涯をたどってきました。
苦しい時代を乗り越えて、日米社交界の華となった亮子ですが、こうして見ていると、華々しげな後半生よりも、苦しい前半生の方が幸せだったようにも感じられます。

亮子と宗光。共に苦難を乗り越えた日々こそ、かけがえのないものだったのかも知れない。Wikipediaより
「人は艱難に遭はなければ真の人間にはなれません。亮子も今度のこと(宗光の入獄)で能く心を研(みが)かねばなりません……」姑・伊達政子の言葉どおり、苦難の中でも志を捨てず活躍した宗光を支え続けることによって、亮子の心映えもより美しく磨かれたのかも知れません。
※参考文献:
岡崎久彦『陸奥宗光とその時代』PHP文庫、2003年3月
佐々木雄一『陸奥宗光 「日本外交の祖」の生涯』中公新書、2018年10月
新聞集成明治編年史編纂会 編『新聞集成明治編年史. 第十一卷』林泉社、1940年8月
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