軍服を動きやすい洋装にする風潮は幕末からありましたが、洋装が一般市民にも広まったのは明治に入り、しばらく経ってからです。
ここでは、明治期に流行したファッションを錦絵で見ていきたいと思います。
■自由なヘアスタイルOKの「散髪脱刀令」
明治4(1871)年8月9日、散髪脱刀令が出されると、髪型は自由となり、華族・氏族は刀を差さなくても構わないとされました。
刀を差すのは禁止!明治時代の「廃刀令」は効力を失わず、実は昭和時代まで続いていた
これは、髷を結い、刀を帯びることがそれまでの礼装とされてきた中「自由な髪型にして良いし刀も持たなくても良い」という布告で、「短髪にしなくてはならない、刀を持ってはならない」という意味ではありません。そのため布告以降も髷にこだわる人もわりと多かったようです。
明治6年3月に明治天皇が断髪をしたことで庶民の断髪に拍車がかかりますが、ちょん髷姿が見られなくなるには、もう少し時間がかかりました。
こちらは三代広重の「内国勧業博覧会美術館之図」という絵です。
内国勧業博覧会の美術館を描いた明治10年の作品ですが、ここにいる人々の髪型に注目するとザンギリ:髷=3:2くらいの割合で見られます。
女性では西洋束髪よりも日本髪の方が多いくらいです。
《内国勧業博覧会美術館之図》三代歌川広重 明治10(1877)年
また、女性の髪型も西洋風の束髪へと次第に変化していきました。
散髪脱刀令との関係では、明治5年4月5日(1872年5月11日)に東京府が「女子断髪禁止令」を出しています。これは散髪脱刀令の趣旨を「女子も散髪すべきである」と誤解した女性が男性同様の短髪にすることがあったためです。
明治18(1885)年には婦人束髪会が誕生します。

油を大量に使う従来の日本髪よりも衛生的・経済的・実用性に優れ文化的として、島田髷や丸髷の代わりに西洋束髪を取り入れる運動を行いました。
■洋装は文明開化の証

散髪脱刀令の出された翌年、明治5(1872)年、太政官布告339号(大礼服及通常礼服ヲ定メ衣冠ヲ祭服ト為ス等ノ件)が出されます。これによって男性はヨーロッパの宮廷服にならった大礼服を着ることなどが定められました。
以後、警官・鉄道員・郵便夫等の制服、また教員の服装なども西洋化していきました。一般庶民の間にも洋装は少しずつ広まっていきますが、和装をベースにに一部だけ洋装を取り入れたスタイルも出てきます。
下の絵は久松町久松座の劇場を描いたものですが、洋装の男性・女性の他に、和装に洋傘を持ったり帽子を被った男性の姿も見られます。

一方、女性の洋装が一般化するのは遅れ、一般女性に洋装が広まったのは大正期に入ってからです。
男性の大礼服が定められたのは明治5(1872)年ですが、女性の大礼服はその14年後、明治19(1886)年に制定されます。宮廷のほか明治期に洋装をしていたのは主に上流階級で、一般市民の間ではまだまだ和服が着用されていました。
明治期の女性の様相で主だったものは、鹿鳴館の舞踏会でのドレスです。
こちらは鹿鳴館の舞踏会を描いた、楊洲周延の作品です。

当時ヨーロッパで流行していたバッスルスタイルが「鹿鳴館スタイル」として人気が出ました。

当時の錦絵には、バッスルスタイルのドレスを身に纏った、上流階級の女性たちの姿が見られます。バッスルとはカゴという意味で、スカートの後ろを膨らませるための腰当てです。
■洋装を経て再燃した和装ブーム
明治期になると、洋装は文明開化の証としてもてはやされましたが、明治20年代には国粋主義(国家主義)により和装ブームが再燃します。
明治30年代になると再び洋装の流れが戻ってきましたが、和装ブームは約10年間続いたようです。
こちらは明治期の和装を描いた錦絵、《両国川開きの花火》楊洲周延 明治27(1894)年 。
色とりどりの浴衣姿が綺麗です。

楊洲周延は「江戸風俗十二ヶ月の内」でも江戸庶民の生活を描いています。急激な西洋化が進一方で、江戸風俗を懐かしむ声も上がっていたようです。


日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan