みなさんは、戦国時代の薬、と聞いてどんなイメージを持ちますか?2020年の大河ドラマ「麒麟が来る」でも丸薬を作って貧しい人々に与えている「駒」という登場人物が出てきました。

そこで今回の記事では、戦国時代にどんな薬があったのか、また薬を取り巻く環境はどうだったのか、ということについて詳しくご紹介します。


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■織田信長が作らせた「薬草園」

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織田信長

戦国時代の三英傑の一人、織田信長は伊吹山(現在の岐阜県・滋賀県の県境に位置)に「薬草園」を作らせたといいます。これは、ポルトガルからやってきた宣教師である、フランシスコ・カブラルのすすめだったとか。

この薬草園は50万平方メートルにもおよび、そこには西洋の薬草が約3000種類も栽培されていたそうです。

この薬草園について確かな記録はまだ見つかっていませんが、この伊吹山にのみ、イブキノエンドウ、キバナノレンリソウ、イブキカモジグサ、といったヨーロッパ原産の植物が自生しているため、有力な証拠となっています。

■戦国時代の薬師(くすし)、医学の重要性

織田信長が薬草園を開いていた?戦国時代にはどんな薬が使われていたのか


薬師(くすし)は、現在でいうところの薬剤師です。しかし、手術などの医学技術が発達していなかった戦国時代、この薬師は、患者の様子を見て、それに合う薬を処方し、医者のような役割を担っていました。


当時は、中国から伝わってきた漢方に、日本独自の薬学が加えられたものでした。当時は、戦が頻繁に起こる戦国時代。このころから、医学や薬学の必要性が以前にも増して大きくなっていきました。そして、兵士の体調に関わる問題のため、薬は軍事物資として重要視されるようになりました。

大名によっては、薬の流通を細かく管理する者もいました。また、武田信玄は、侍医であった永田徳本が記した「十九方」を陣中の必携書としたといいます。


いかがでしたか?今回は、織田信長が作った「薬草園」や、武田信玄が陣中の必携書とした「十九方」など、戦国時代における薬にまつわる歴史をご紹介しました。

この記事が、みなさんが少しでも戦国時代や日本の歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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