有名人の子孫というものは、良くも悪くも祖先の影響を大きく受けがちなもので、そのお陰で物事が上手くいくこともあれば、その逆もまた然りです。

今回は明治時代、祖先のよからぬイメージに悩まされた蜂須賀茂韶(はちすか もちあき)のエピソードを紹介したいと思います。


■蜂須賀小六は盗賊じゃなかった?歴史学者に調査を依頼

蜂須賀と聞くと、歴史ファン(特に戦国ファン)なら蜂須賀小六(ころく。正勝)を連想されることでしょう。

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秀吉(日吉丸)と小六(蓮葉皃六将勝)の出逢い。月岡芳年 「美談武者八景 矢矧の落雁」

戦国時代、盗賊の親分だった小六は若き日の豊臣秀吉(とよとみ ひでよし)と出逢ってその才覚を見出し、後に立身出世した秀吉に仕えて活躍。ついには阿波国(現:徳島県)一国を与えられます。

事実、茂韶はその子孫(厳密には養子)で、阿波徳島藩の第14代藩主でした。

そんな茂韶がある時、明治天皇(めいじてんのう。第122代)に拝謁するため宮中へ参内し、応接室で陛下を待っていた時のこと。

愛煙家の性(さが)か、つい口許が寂しくなった茂韶は、卓上にあった煙草を一本失敬してしまいます。

(これはよい煙草。後でじっくり楽しませていただこう……)

すると陛下が入室され、卓上の煙草が一本減っていることに気づきました。

蜂須賀小六は盗賊じゃなかった?祖先の汚名を雪ごうとした子孫のエピソード


「ふふ、蜂須賀よ、先祖は争えぬのう……」

陛下が笑いながらそう仰ったのは、きっと悪意ではなく、日ごろみんなが畏まって自分に接する中、この男は宮中にもかかわらず泥棒っ気(※)を出したことが純粋に愉快だったのでしょう。


(※)昔から「(モノを作りたくなる)職人っ気と(モノを獲得したくなる)泥棒っ気のない男はいない」と言うように、悪ガキ仲間を見つけたような気分だったのかも知れません。

しかし、茂韶にしてみれば素性の卑しい祖先をバカにされたようで、自分の振る舞いが恥ずかしくて悔しくてなりません。

そもそも蜂須賀家は清和源氏の末裔とされており(諸説あり)、小六が盗賊とされたのは江戸時代の伝記『太閤記(たいこうき)』による、秀吉の生い立ちをドラマチックにするための創作です。

蜂須賀小六は盗賊じゃなかった?祖先の汚名を雪ごうとした子孫のエピソード


いかにも盗賊然と描かれる小六。落合芳幾「太平記英雄傳 八菅與六(蜂須賀小六)正勝」

しかし、そのイメージが定着してしまったため、小六の子孫たちは永らく苦しめられており、今回の件で我慢しきれなくなった茂韶は歴史学者の渡辺世祐(わたなべ よすけ)に依頼しました。

「我が蜂須賀家が、決して盗賊ではないことを調査・立証して欲しい!」

「承知しました」

一方、歴史学者の喜田貞吉(きた さだきち)にも調査を依頼したところ、

「蜂須賀小六は確かに盗賊(※)ではありましたが、戦国時代において盗賊は一概に恥ずべき職業ではなかった、という事実であれば、歴史的に証明可能です」

(※)土豪が敵対勢力から略奪を行ったり、街道を占拠して通行料をとったりなどする盗賊的行為は、何も小六に限った話ではありませんでした。

……との旨を回答。そんなことを明言されては困る、とこちらは有耶無耶になったそうです。

■終わりに

しかし、祖先の蜂須賀小六が盗賊であろうとなかろうと、つい出来心で煙草を失敬してしまったのは他ならぬ自分自身。

古来「氏より育ち」と言いますし、どの家柄に生まれたかより、どう生きるかの方がよほど大切です。

蜂須賀小六は盗賊じゃなかった?祖先の汚名を雪ごうとした子孫のエピソード


蜂須賀茂韶。Wikipediaより

その後、心を入れ替えた茂韶は職務に精励して元老院議官や貴族院議長、文部大臣や東京府知事など、明治政府の要職を歴任。


小六も子孫の活躍を喜び、誇りに思っていることでしょう。

※参考文献:
河合敦『殿様は「明治」をどう生きたのか』扶桑社文庫、2020年12月
小田部雄次『華族 近代日本貴族の虚像と実像』中央公論新社、2006年3月
司馬遼太郎『濃尾参州記 街道をゆく43』朝日文芸文庫、1998年3月
河盛好蔵『人とつき合う法』新潮文庫、2020年4月

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