名門貴族・近衛家出身でありながら、戦国武将となった斎藤大納言正義。美濃統一を目指す斎藤道三の後援を経て、武将としての頭角を現していきます。


後編では、そんな斎藤大納言正義の活躍と悲劇的な最期を紹介しましょう。

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名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【前編】

■16歳で初陣を飾り、要の城の城将に

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 浄音寺に伝わる斎藤大納言正義の肖像画。20代前半の姿と考えられている。(写真:Wikipedia)

斎藤正義は、16歳で元服するとすぐに初陣を飾りました。斎藤道三に仕えていた日根野弘就(ひねのひろなり)の軍勢に従い、大桑城に拠って道三とその主である土岐頼芸(ときよりあき)に敵対していた土岐頼純との合戦にのぞんだのです。

この時、正義は300人の手勢を率いていたといわれます。300人の兵を動員するためには1万石近い所領がないとできません。この時点で、正義がそれほどの所領を持っていたとは考えづらく、おそらくは道三が正義の初陣のために兵を与えたのではないでしょうか。

その後、道三が東濃(美濃東部)への橋頭保として高山(古城山)山頂に「掻き上げの城」を築くと、2000人の兵を率いる城将として城の守備を任されたとされます。この城が、後に正義が城主となる鳥峰城(兼山城・金山城)の原型かどうかは定かではありませんが、初陣の後に、7倍以上の兵を与えられたわけです。

このことから、道三が、単に血筋だけでなく、正義の武将として器量を認めていたと考えて差し支えないと思われます。

ただ、【前編】で述べた通り、美濃統一に野心を燃やす道三としては、正義に流れる名門貴族の血は、曲者揃いの美濃国人衆を服従させるためには、絶対に手放せないものであったのでしょう。
その後の大納言正義の活躍の背景には、絶えず道三がつきまとうのです。

名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】


 美濃守護職の座を土岐頼芸と争った土岐頼純。(写真:Wikipedia)

■道三のもと、東濃方面の司令官として活躍

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 正義が築城し、居城とした鳥越城。後に縄張りが拡大・整備され金山城となった。(写真:Wikipedia)

初陣から5年後の1537(天文6)年、正義は鳥峰城(後の兼山城・金山城)を築城しました。これは、斎藤道三が尾張侵攻のために正義に命じ、正義は近隣14人の諸将の協力を得て、城の普請を行ったとされます。道三は、正義を一族衆として、さらに東農方面の司令官としての地位を与えていたようです。

城が完成すると正義は大納言を名乗るようになります。おそらくは、この頃、正義は斎藤持是院家の名跡を継ぐとともに、その支配地(岐阜県八百津町・金山町)を引き継いだのではないでしょうか。こうしたことも関係して、持是院家の斎藤利親(妙親)の官位・大納言を得たともいえるでしょう。

鳥峰城主となった正義は道三が見込んだ通りの活躍を見せます。特に、久々利城(岐阜県可児市)を本拠として、道三に頑強に抵抗していた久々利悪五郎頼興(土岐三河守)と戦い局地戦に勝利、道三から派遣された与力達に感状を与えています。


この時期は、まさに道三の美濃統一過程と一致し、正義が道三軍の方面司令官として大いに活躍し、その国盗り事業に貢献したと考えて問題ないでしょう。

ただ、気になるのは、道三の主人として守護土岐頼芸が健在していたことです。名門意識が高い頼芸からすると、素性の知れない道三と近衛家の出である正義とでは、見方が異なったのでしょうか。功臣である道三も新参者である正義も同等に見ていた可能性が高いのです。

このあたりに、道三の美濃統一の後に正義の立場が危うくなる要因があったのかもしれません。

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 鷺山城。土岐頼芸が入り、後に斎藤道三も居城とした。(写真:Wikipedia)

■血筋と器量ゆえの悲劇的な最期

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 織田信長の父織田信秀。信長の覇業も信秀の基盤を引き継いだことが大きかった。(写真:Wikipedia)

1541(天文10)年、斎藤道三は、土岐頼芸とその子頼次を尾張に追放、事実上美濃国主となりました。

同年、斎藤正義は、久々利城の久々利頼興と講和し、頼興は正義の配下に組み込まれます。

美濃を追われた土岐頼芸は、尾張の織田信秀(信長の父)を頼りました。
この流れに乗じた信秀は、1547(天文16)年9月に、26000人におよぶ大軍で道三の居城稲葉山城を攻めます。

しかし、巧みな戦術を駆使する道三に翻弄され、5000人の兵を失うという壊滅的な打撃を受け、撤退しました。その翌年、道三の娘帰蝶が信秀の嫡男信長に嫁すことで、道三と信秀は和睦を結びます。

時を同じくして、斎藤大納言正義の身に悲劇が訪れました。1548(天文17)年2月、久々利頼興の招きで久々利城に赴いた正義が、酒宴の最中に暗殺されたのです。弱冠33歳、異色の戦国武将はその波乱に富んだ人生を終えたのでした。

名門の貴族から戦国武将に!異色すぎる人生を歩んだ「斎藤大納言正義」の生涯 【後編】


 正義が暗殺された久々利城。1583(天正11)年、森長可の手により落城した。(写真:岐阜県観光協会)

正義を暗殺した頼興は、すぐさま正義の居城鳥越城を堕とします。しかし、道三は頼興に対し報復行動を起こしませんでした。配下の方面司令官が殺害されたのに、まるで見て見ぬふりをしているかのような態度であったのです。こうしたことから、正義の暗殺は道三の意向によって行われた可能性が高いと考えられています。


本格的な美濃統一に奔り始めた道三にとって正義は、武将としての器量と高貴な血筋から、恐るべき存在になったのでしょうか。いまだ抵抗を続ける美濃国人衆が、正義を主として道三と対立することを危惧したということは、容易に想像ができるからです。

斎藤大納言正義の死後、道三と敵対していた美濃国人衆は、次々と滅ぼされていきます。そして、1552(天文21)年、道三による美濃平定が成し遂げられたのです。

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 浄音寺に残る斎藤大納言正義の墓。(写真:T.TAKANO)

2回にわたりお読みいただき、ありがとうございました。

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