古代日本の都の移動、いわゆる「遷都」といえば大規模な土木工事が伴う国家的プロジェクトです。それが奈良時代から平安時代にかけては藤原京、平城京、長岡京、平安京と、ごく短いサイクルで行われています。
ここでは、遷都事業の中心人物だった桓武天皇の思惑を踏まえながら、その経緯をたどります。
桓武天皇(Wikipediaより)
710(和銅3)年に奈良に設置された平城京。ところが桓武天皇には悩みがありました。朝廷の権力を拡大をする上で、奈良仏教の寺院と天武天皇系の皇族・貴族たちがどうしても邪魔だったのです。
有名な道教を筆頭に、当時は奈良仏教系の寺院の僧侶たちが政治に介入しがちでした。また天皇家の一族は、天智天皇系と天武天皇系の系統が仲たがいをしている状態でした。桓武天皇は前者の系統で、対立する後者の皇族・貴族から殺されかねないほど嫌われていました。
もともと天智天皇系の皇室が一世紀ぶりに復活したのは、桓武天皇の父親である光仁天皇が即位したことがきっかけでした。桓武天皇としてはこれを中国の「王朝交代」になぞらえて、いろいろと心機一転したいと考えていました。
そこで遷都です。彼は平城京を捨てて新天地である長岡京へ移り、邪魔な仏教勢力や天武天皇系の嫌な親戚たちと物理的に距離を置くことにしました。

平城宮跡 大極殿
ちなみに、のちに桓武天皇は、最澄が中国から持ち帰った天台宗や、空海の真言宗を保護しています。
こうして、約70年間、日本の首都として機能した平城京は幕を閉じます。784(延暦3)年のことでした。
■でも長岡京もダメ!怨霊にはかなわない

長岡天満宮
さて、長岡京に遷都したものの大事件が発生します。遷都の責任者だった藤原種継が785(延暦4)年に矢で射られて暗殺されたのです。事件の関係者として、奈良仏教と関わりがあったとされる貴族や皇族が何人も処罰されました。
そして処罰された人の中には、桓武天皇の弟である早良(さわら)親王も含まれていました。彼はかつて東大寺の僧侶だった経歴があり、奈良仏教関係者として疑われたのです。しかし彼は無実を訴え、島流しにされながらもハンストを試みて亡くなりました。
ここからケチがつき、桓武天皇の周囲で不幸は連鎖していきます。早良親王の死後、桓武天皇の后や生母、さらに皇太子の安殿親王(あてのみこ)が次々に病に倒れて亡くなる人も出ます。さらに飢饉に疫病に洪水など、これでもかと言わんばかりに都に災厄が降りかかりました。
「怨霊の祟りだ」――。現代では想像もつかないほど、“怨霊”の存在が真剣に考えられていた時代です。桓武天皇は亡き早良親王に祟道天皇という天皇号をおくったり、鎮魂の儀式を行ったりしましたが効果はありませんでした。
そこで、天皇に訴えたのは、長岡京の治水工事を担当していた和気清麻呂です。彼は「長岡京の洪水は、治水工事くらいでは止められません。引っ越しましょう」と述べました。まだ引っ越して10年しか経っていない長岡京でしたが、桓武天皇は彼の忠告に従い、次なる都へ遷都することに決めます。

大手町の和気清麻呂像
ちなみに現代の視点で見ると、長岡京は洪水が起きても全く不思議ではない場所でした。もともと川に囲まれている上に、そのうちの一つである小畑川は、近代に入るまで頻繁に洪水を起こしています。怨霊や祟り以前に、長岡京は場所も悪かったのでしょう。
■こんにちは平安京!水利も確保しひと安心
こうして、皆さんご存じ「平安京」への遷都が行われました。この都市は当時世界最大の都市だった唐の長安を模したもので、道路が碁盤の目のようになっている「条坊制」が採用されたのでした。
平安京は、明治維新後に首都が東京へ移されるまで、約千年間にわたり日本の都として機能します。もっとも首都として「繁栄」し続けたかというとそうでもなく、貴族文化が終焉する頃には政治不安によって荒廃し、朝廷には既に遷都する体力も残っていなかったとする見方もありますが。
しかし少なくとも、平安京にはそれまでの平城京や長岡京と一線を画す優れた点がありました。海に通じる大きな河川の存在です。平安京の近くには淀川水系があり、どの河川を辿っても海がすぐそこにあるという地形だったのです。

平安神宮応天門
となれば、船で全国からの物資を運ぶことができます。平安京は水路の要衝となり、商業や工業が盛んになりました。藤原京と平城京にはこうした河川はなく、物資の運搬は全て陸路に頼っていたのです。また、水を引けないため下水が整っておらず町は不衛生でした。
その点、長岡京は近くに大きな河川が三つもあり物資の運搬には事欠かなかったようです。まだ豊富な水のおかげで下水問題も解決できたのですが、逆にそれらの河川が原因で洪水になってしまったのです。
平安京が栄えて長く続いた大きな理由は、多くの人や物資が出入りすることで「商業都市」「工業都市」として発展したからです。その前の藤原京と平城京は水路がないため、せいぜい「政治都市」どまりでした。長岡京もいいところまで行ったのですが、災害に弱いという欠点がありました。
古代日本の遷都と言えば、なんとなく「大昔の人が迷信に惑わされ、怨霊や祟りから逃れるために引っ越しを繰り返した」というイメージがあります。しかしそれは古代の日本人がそのように“説明づけた”だけの話で、遷都の根本的な理由は、政治的な思惑や自然災害、インフラの問題にあったことが分かりますね。
参考資料
- 全ての受験生に贈る高校日本史
- 竹村公太郎(リバーフロント研究所研究参与)PHP文庫『日本史の謎は「地形」で解ける』より
- まなれきドットコム「桓武天皇の平安京遷都を簡単にわかりやすく徹底解説する【長岡京遷都とセットで流れがわかる!】」
- 歴史専門サイト レキシル「桓武天皇が平安京へ都を移した理由は?政策や政治のやり方も解説」
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