有名なところでは、源頼朝(みなもとの よりとも)公の肖像画は実は足利直義(あしかが ただよし)ではないかとか、武田信玄(たけだ しんげん)公だと思われた肖像画が、もしかしたら畠山義続(はたけやま よしつぐ)かも知れないとか……。
騎馬武者肖像。果たして尊氏なのか、師直なのか。Wikipediaより
そんな一つに挙げられるのが、こちらの有名な騎馬武者像。かつては足利尊氏(あしかが たかうじ)と言われてきたのが、実は家臣の高師直(こうの もろなお)だという可能性が指摘されています。
■どうして髷を結っていないの?
さて、この肖像画が足利尊氏か高師直かはさておき、今回気になったのは人物の髪型。当時男性の一般的な髪型であった髷(まげ)を結っておらず、襟足くらいまでのザンバラ髪。この短さでは、ギリギリ髷を結えるかどうかというところ。
毛先を見ると、あまり切り揃えられている様子もないので、お洒落でやっているとも思えませんが……。
まず思いつくのは、この時代の兜は髷をほどいた状態でかぶったということ。
平安時代末期から鎌倉時代にかけての兜は、天辺の穴に髷(およびそれを覆う烏帽子)を通すことで頭に固定していましたが、この穴から矢を射込んで来るので、大きな弱点の一つとなっていました。
そこで、鎌倉時代末期になるとアゴひもで兜を頭に固定するようになり、天辺の穴は最低限の通気口を除いて(やがてそれも)ふさがれていきます。
そうなると、髷を結ったままでは兜が固定しにくいため、兜をかぶる時には髷をほどくようになりました。
やがて頭が蒸れるということで頭髪の中央部を剃る月代(さかやき)スタイルが普及していきますが、それはもう少し先の話し。

兜はどこかへ脱げてしまった(イメージ)
だから、戦場における平常スタイルなのだと思えなくもないものの、再び髷を結うのが前提であれば、この髪はあまりに短すぎます。
実はこれ、もう「二度と髷を結わない」決死の覚悟で髪を断ち切った跡なのです。
■生死を共に戦う覚悟
建武2年(1335年)11月、朝廷から謀叛の疑いをかけられた尊氏は赦免を求めて断髪、恭順の意を示すものの許されず、やむなく叛旗を翻しました。
その時、御家人たちも決死の覚悟を共にするべく髪を一束切(いっそくぎり)にしたと言います。
……されば其比(そのころ)鎌倉中の軍勢共が、一束切とて髻を短くしけるは、将軍の髪を紛(まぎら)かさんが為也(ためなり)けり。……一束切とは、髻(もとどり。髪の根元)を握りこぶし一束(ひとつか。一掴み)分のところで髪をバッサリ切ること、または切った髪型を言い、再び結うのが難しいことから、基本的に死を覚悟した時の決意表明となります。
※『太平記』巻第十四「矢矧、鷺坂、手超河原闘事」より
現代でも「髪は女の命」などと言いますが、かつては男性にとっても髪は人間としての尊厳と矜持、すなわち命を示すものでした(だからこそ、尊氏は髪を切って赦免を乞うたのでした)。

奮戦する尊氏。『絵本武者備考』より
「ここに命を捨てたる上は、我ら一同、冥土までお供仕る!」
「そなたら……」
「野郎ども、行くぞ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
そんな勇壮な出撃シーンを描いたのが、先の騎馬像となります。
※参考文献:
- 江田郁夫ら編『足利尊氏再発見 一族をめぐる肖像・仏像・古文書』吉川弘文館、2011年10月
- 佐藤進一『日本の歴史9 南北朝の動乱』中公文庫、2005年1月
- 森茂暁『足利尊氏』角川選書、2017年3月
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