■応仁の乱はなぜ起きた?

応仁の乱は、室町時代元年から文明9年までの約11年間に渡って繰り広げられた内乱で、「戦国時代の幕開け」の戦として有名です。そのそもそもの原因は「お世継ぎ問題」にありました。


室町幕府8代目将軍・足利義政とその正室・日野富子は、子宝に恵まれないという問題を抱えていました。後継者がいなければ、室町幕府は滅亡してしまいます。

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足利義政(Wikipediaより)

そこで義政は、出家していた弟・義視(よしみ)を養子として迎え、後継者にすることを決めました。

しかし、寛正6年(1465年)に義政と富子の間に息子・義尚(よしひさ)が生まれたことで事態は一変します。

富子は、息子である義尚に跡継ぎを譲ることを望み、義政も「義尚を9代目将軍とする」とお世継ぎの変更を申し出ます。

これまで跡継ぎとされていた義視はこれに反対します。

そして、将軍家は「義視派」と「義尚派」の2派に分かれ、応仁の乱へと発展することになるのですが、これが約11年も続いたのは、対立し合っていた大名がこの家督争いに乗っかったからです。

その大名とは、山名宗全と細川勝元。富子は山名宗全を、義視は細川勝元を、それぞれ味方につけました。

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細川勝元(Wikipediaより)

宗全と勝元は最初は協力関係にあったのですが、応仁の乱が発生する前に敵対関係になったとされ、彼らの衝突も応仁の乱を長引かせる一因となりました。

また、ここに大名の畠山家の家督争いも絡んできます。

畠山家の家督争いも、足利将軍家と同じパターンです。
最初はお世継ぎに恵まれなかったので養子・持富(もちとみ)を迎えたところ実子・義就(よしなり)が生まれてケンカになったのでした。面白いくらいに同じ構図で、こういうトラブルはもしかすると当時よくあったのだろうか、と想像してしまいます。

■瀬戸内海の利権もからむ

こうして持富が「義視派」に、そして義就が「義尚派」に加わることになりました。将軍家と畠山家の家督争い、それに有力大名の確執の全てが絡み合い、何がなんだか分からない中で争いの規模ばかりが大きくなっていきます。

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京都市「応仁の乱勃発地」。文正2年(1467年)1月18日、この上御霊神社の森の合戦から応仁の乱は始まったとされる

さて当事者たちは、足利義尚・畠山義就・山名宗全の「西軍」、足利義視・畠山政長(畠山持富の子)・細川勝元の「東軍」に分かれました。図式的にまとめるとこうです。

【西軍】日野富子=義尚(足利の実子)=山名宗全=義就(畠山の実子)
【東軍】義視(足利の養子)=細川勝元=持富(畠山の養子)

争いの中心(大将)は山名宗全と細川勝元です。最初は将軍家が後ろ盾についた東軍が優勢でしたが、新たに守護大名・大内政弘が西軍に参戦し、ますます戦乱は激化しました。

なんで家督争いとは無関係の大内氏が首を突っ込んできたのかというと、山名宗全の盟友だったからというのもありますが、実は瀬戸内海の制海権を押さえたいという理由があったのです。

当時は、瀬戸内海の交易が盛んで、そこには日明貿易の利権もからんでいたので、これを押さえれば豊かな富が手に入ります。大内氏が狙ったのはそれでした。


もともと日明貿易は儲かるということで多くの大名がやりたがっていたのですが、明との貿易は将軍の名前がないとできません。そこで、幕府の実権を握って将軍を意のままに操れれば丸儲けというわけです。

大内が日明貿易にこだわるのには理由がありました。彼は自らを朝鮮王朝の子孫だと名乗り、朝鮮との交易も行っていました。また博多の商人との結びつきも強く、商業や貿易に強かったのです。

ここから、応仁の乱のコンセプトはますますおかしくなっていきます。むしろこの戦乱が火種になって、それまで溜め込まれていたケンカの火種が誘爆を起こしたのだと言えるかも知れません。細川と山名は瀬戸内海沿岸の分取り合戦に突入していきます。

■やっと収束、そして戦国の世へ

そもそも、最初は家督争いで揉めていたのですから、瀬戸内海の貿易利権なんて多くの武士にとっては「知ったこっちゃない」と言いたくなる話だったのではないでしょうか。

こうして争いの原因がうやむやになり、当事者たちもなぜ争っているのか分からないまま、応仁の乱は展開していったのです。この、そもそもの目的が見失われてズルズルと戦が長引いていく様は、後年の日中戦争から太平洋戦争に至る流れを連想させますね。

応仁の乱はひどい戦乱でした。
京都の寺や建物が焼失し、文化的価値の高い史書や歌集も灰燼に帰します。京では物資も不足し、疫病も発生しました。

そして応仁の乱の始まりから7年経った文明5年(1473年)、義尚が9歳で元服し、第9代将軍に就任します。まずは足利家の家督争いが終息したのです。

さらに両軍の大将である宗全と勝元が相次いでこの世を去り、やっと落ち着くかと思われたのですが、大内政弘は戦いをやめませんでした。ここまで争って何の成果もないまま終わらせられない、という考えだったのです。

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京都市南禅寺にある山名宗全の墓(Wikipediaより)

こうなると、理由が曖昧というよりももはや意味のない戦いです。これがようやく終わりを迎えたのは文明9年(1477年)のことで、富子の働きかけにより義尚と義視が和睦し、引き分けとなったのでした。

普通、この時代の戦乱では、勝者が領地を手に入れたり、地位が上がったりするものです。しかし応仁の乱では誰も得をせず、室町幕府の信頼も地に堕ちる結果となりました。

それまで社会秩序を支えていた権威は失墜し、長引く戦乱の中でいつしか世の中は弱肉強食の無秩序状態となっていました。

もうお判りですね。
さあ、みんな大好き戦国時代の始まりです。ここから武田信玄・上杉謙信・斎藤道三といった武将たちが登場し、覇権争いとなっていくのです。

参考資料
本郷和人『日本史の論点』(扶桑社新書)
HugKum(はぐくむ)

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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