■足利義政は「ダメ将軍」?

室町幕府第8代将軍の足利義政(あしかが・よしまさ)はどんな人物かと聞かれたら、歴史好きの人はすかさず「ダメ将軍」と答えるのではないでしょうか。

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足利義政(Wikipediaより)

確かに、足利義政には一般的に悪いイメージしかありません。
将軍であるにもかかわらず、応仁の乱という大乱はほったらかしで文芸活動にうつつを抜かした……とされています。

しかし詳しく調べてみると、それはあまりにも一面的な解釈であることが分かります。少し彼の生い立ちと足跡を辿ってみましょう。

足利義政は、9歳で将軍職を継いだ兄・足利義勝(よしかつ)が、その後わずか8ヶ月で病死したことで将軍職を継ぐことになります。

その義政も幼少であったことから、幕府は実質的に有力氏族によって運営される連立政権の体をなすことになります。

成人した義政は、なんとか将軍親政を行おうとしました。しかし、その頃には管領細川氏と侍所長官である山名氏を巻き込んだ勢力争いが勃発しており、そこに有力管領家の斯波氏と畠山氏の家督争いが絡み合って、義政が思うように政治を行える状況ではありませんでした。

義政の意欲を奪ったのは、周囲の大人たちでもありました。彼の母親や、正室の実家である日野氏までもが政治に介入し、若い将軍の存在は飾り物同然になってしまったのです。

特に幕府の体制を牛耳った乳母の今参局(いままいりのつぼね)、養育者の烏丸資任(からすまるすけとう)、側近の有馬持家(ありまもちいえ)の3人などは、名前に「ま」が入っていることから「三魔」と呼ばれたものです。

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烏丸資任(Wikipediaより)

幕府を舞台にした勢力争いは「応仁の乱」でピークを迎えます。

■戦乱をよそにわび・さびの世界へ…

実子に恵まれなかった義政は、早く将軍をやめたいと考えていました。
そこで仏門に入っていた弟を還俗させ、足利義視(よしみ)を次期将軍にさせようとします。

しかしその矢先に実子の義尚(よしひさ)が生まれたことで、義視派と義尚派に分かれて有力者たちが争いを始めるようになり、それがピークに達した時、京の町を中心として応仁の乱が起こりました。

我が子を将軍につけたい日野富子は義尚派である山名宗全を頼み、義視は義視で管領である細川勝元を頼みます。加えて、それぞれに家督相続を争っている斯波氏、畠山氏の双方が味方に付き、さらにはそれぞれの派に勢力伸長を狙う地方の守護や国人が味方に付き、もうむちゃくちゃです。

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細川勝元(Wikipediaより)

後世から見てもむちゃくちゃに見えるくらいですから、しまいには当事者たちも何がなんだか分からなくなっていました。何が目的なのか、何をどうすれば勝利者としてこの戦乱を収めることができるのか誰にも分かりません。こうして戦乱は全国各地に広がっていきます。

そんな中、将軍の義政は趣味に耽っていました。

やがて文明5年(1473)に細川勝元と山名宗全の両名が死ぬと、義政も将軍職を義尚に譲って隠居します。一応、まだ政治的な影響力は残していたため、義政は「東山殿」、義尚は「室町殿」などと呼ばれていました。

義政が完全に引退したのは、応仁の乱が終結してからでした。

彼は東山山荘(東山殿)を造営して銀閣を建立し、絵画や能楽など文化的な活動に力を注ぎ、芸能・芸術に携わる人たちへの支援を積極的に行います。


初花、九十九髪茄子といった茶器がつくられたのもこの時代です。義政の支援で栄えた文化は「東山文化」と呼ばれ、日本文化の伝統の「わび・さび」の世界はここから始まっていきました。

義政の別荘は今でいう「銀閣寺」です。

■後世の評価は正当か

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銀閣寺

それにしても、このようにざっと見ただけでも、義政がやる気を失うのも当然という気がします。幼い頃に兄の代わりに将軍の座に引っぱり出され、実際には周囲の大人たちが連立政権を組んで政治を行っている。で、自分が大人になったのでちゃんとやろうとしても、誰も言うことを聞いてくれない……。

だからさっさと将軍職を辞したかったのに、今度は自分の跡継ぎ問題でゴタゴタが発生し、そこに有力大名が勝手に乗っかって自分たちの家督争いが原因の喧嘩を始めるのです。「もう勝手にしろ」と言いたくなるのも分かる気がします。

室町幕府が滅んだのは彼の責任ではないものの、彼の代で極端に足利家が衰退していったのは事実です。トップが無気力になると組織も衰退するというのはひとつの歴史のパターンで、源実朝もそういうところがありました。また北条家最後の得宗も、闘犬や田楽、仏画など趣味の世界に没頭し、鎌倉幕府の滅亡を招いています。

また、毛並みも頭もいいのに優柔不断な上にムラ気があり、咄嗟の状況判断が下手という部分は、後年の近衛文麿と似ているという論者もいます。


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近衛文麿(Wikipediaより)

確かに、応仁の乱が拡大し長期化した原因の一つが義政にあるのは間違いありません。しかし守護大名の連合政権という室町幕府の体制では、本来はよほどのカリスマ性や統率力がなければトップの仕事はできないのです。そこで無理をすれば暗殺されるのが関の山です。

そういう意味では、足利義政はもう少し突っ込んだ、正当な人物評価がなされてもいい人物だと言えます。

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参考資料
・ドナルド・キーン(著)角地幸男(翻訳)『足利義政と銀閣寺』2008年・中公文庫
・呉座勇一『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』2016年・中公新書

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