前回は世界的な温暖化により日本列島がほぼ形成され、定住化により狩猟・漁労が活発化されたこと、初歩的農業が確立されたこと、他に鬼界カルデラの大爆発などについてご紹介しました。

今回は縄文時代(草創期・早期・前期・中期・晩期)の前期についてご紹介します。


これまでの記事

縄文時代はなんと一万年以上もあった!(1)現在でも学者の間で議論が続く縄文時代の不思議

縄文時代はなんと一万年以上もあった!(2)草創期、弓矢や土器を創り定住生活へ

縄文時代はなんと一万年以上もあった!(3)早期・温暖化で日本列島が形成、初歩的農法が確立される

■縄文時代・前期(紀元前5,000年~紀元前3,000年頃)

植物帯としては亜熱帯性の常緑広葉樹林や、乾季に適した落葉広葉樹林から構成される植形成され、温かい海や山は豊富な実り・生き物たちを育み、人々が食物を得るため、食べるための石器や骨角器の数や種類が増え多様化しはじめます。

植林農法の種類もドングリやクルミより食べやすいクリに変わり、大規模化していきます。

そして湖や沼が成形され、これをきっかけにさらに採集・漁猟活動がさらに活発化しました。
丸木舟が作られるようになり、海へ進出して石器でオモリをつけた網を使った漁などが行われるようになります。サメやクジラなどを漁獲することもありました。

集団村落間における物々交換が始まる
縄文時代はなんと一万年以上もあった!(4)前期・物々交換が始...の画像はこちら >>


中期の翡翠(三内丸山遺跡)ウィキペディアより

青森県青森市の「三内丸山遺跡」で、約紀元前3,500年頃の翡翠が発見されていますが、翡翠はミャンマーと新潟県の糸魚川からしか産出されません。

新潟県の糸魚川市には約紀元前3,500年頃から1,000年ほど営まれていた北陸最大級の集落「長者ケ原遺跡」があり、特に石斧と翡翠の玉類の制作と流通の拠点として栄えました。

この事実を照らし合わせると、この時代には地続きもしくは海運によって、翡翠が遠い他の集落へ伝わっていたことを示しています。

縄文時代はなんと一万年以上もあった!(4)前期・物々交換が始まり集落にはストーンサークル?


発掘された複数の管玉と曲玉を用いた首飾り ウィキペディアより

また耳飾り(ピアス状のものも含む)や、勾玉、管玉をつかった首飾りやブレスレットなどが作られるようになりました。

医療が未発達のこの時代に、耳に穴を開けるという行為はとてもリスクの高いことですが、これは祈祷師的な行為をしていた人物等が付けていたのではないかと考えられます。

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円筒下層式土器 ウィキペディアより

土器はこの期を境にさまざまな地域でいろいろな種類の土器が作られるようになります。例えば北東北を中心に北海道南部では底が平らな細長いバケツのような形の“平底土器”が作られるようになり、これは地層の下で発見されたため“円筒下層土器”と呼ばれています。
それから平底土器が一般的になり中期頃まで作られます。

塩が作られる そして紀元前3,500年頃より現在の霞ヶ浦周辺で、“土器を用いた製塩”が行われるようになったと言われています。

霞ヶ浦沿岸の「広畑貝塚」「法堂遺跡」などで塩を作るための専用土器(製塩土器)の破片などが発見されており、霞ケ浦周辺は、日本で最も古い塩づくりが確認できる地域と考えられています。

何故、人々が塩を作るようになったのかということについては、決定的な原因は分かっていません。食べ物の範囲が広がり、植物を食するのに塩を欲求したなどという説もありますが、これも決め手としては不十分です。
さらに人々の食用を目的としたものではなく、交易のためのものとして作られたのではないかという説もあります。

大規模集落の誕生
縄文時代はなんと一万年以上もあった!(4)前期・物々交換が始まり集落にはストーンサークル?


三内丸山遺跡 ウィキペディアより

またこの頃から竪穴式住居が広場を囲んで集落を作るようになり、青森県青森市の「三内丸山遺跡」のような大規模集落も作られるようになります。

三内丸山遺跡には、通常の遺跡でも見られる竪穴住居、高床式倉庫の他に、大型竪穴住居が10棟以上、約780軒にもおよぶ住居跡、さらに祭祀用に使われたと思われる大型の掘立柱建物が存在したと推測されています。

そして集落が大きくなっていくとともに環状集石(ストーンサークル)が作られ始めます。

環状集石(ストーンサークル) 日本で一番最古の環状集石は、長野県諏訪郡原村にある縄文時代の「阿久遺跡(あきゅういせき)」に存在します。

縄文時代はなんと一万年以上もあった!(4)前期・物々交換が始まり集落にはストーンサークル?


大湯環状列石 ウィキペディアより

阿久遺跡は縄文時代前期に30軒の住居と8基の“方形柱列”で構成されたことから始まります。この“方形柱列”とはまだ何なのか解明されていません。


大人一人がすっぽり入るくらいの穴が数個、正方形や長方形に並ぶ謎の施設で、これを“考古学”では「方形柱列」、「方形柱穴列」と呼んでいるのです。

そして縄文時代前期末葉には丘陵中央に大環状集石群(サークルストーン)が構築されたます。

この環状集石群の規模は長径120メートルで、約20万個の河原石をドーナツ状に配置したものです。

ドーナツ状リングの中央に立石構造があり大小24個の板状の角柱石と半径1メートルの円形に8個の平石が囲んでいます。

縄文時代はなんと一万年以上もあった!(4)前期・物々交換が始まり集落にはストーンサークル?


環状列石中心部の立石構造 ウィキペディアより(イメージ)

その周りに人骨を埋葬したと思われる竪穴と河原石を円形に積んだ集石遺構が多数取り巻いています。約700基余りの土壙墓があると推定されています。

上掲の写真にあるような中央の立石構造から、ドーナツ状の集石群の間を通して“蓼科山”を拝望できるように作られた祭祀場であったと考えられています。

人々の集落の規模はどんどん大きくなっていきました。そして人々はこの大規模集落や祭祀場を作る為に集団行動をするようになり、そこにはリーダーの存在や、専門的知識を持つ人の存在があったことが伺われます。

この頃の日本の人口は約10万5500人と推定されています。

次回、縄文時代はなんと一万年以上もあった!(5)中期に続きます。

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