周知のごとく、海上自衛隊は戦後に発足した組織です。しかし旧日本海軍の文化や伝統の一部も継承しており、実は旧日本海軍の軍艦を再利用していたこともありました。
その軍艦とは、1950年代後半から1970年代初頭にかけて用いられた護衛艦『わかば』です。
海上自衛隊 広島
この『わかば』の前身は、かつて旧日本海軍が駆逐艦として使っていた『梨(なし)』でした。駆逐艦の不足を補うために急ピッチで作られた、戦時型駆逐艦の一隻だったのです。

護衛艦 わかば
その来し方は、決して輝かしいものではありませんでした。「梨」が竣工したのは1945年3月、既に戦争の勝敗が決しつつあった時期です。当初、「梨」は燃料不足のために瀬戸内海に留置され出撃の機会を失っていました。
その後は、5月21日に『萩』とともに第三一戦隊、第五二駆逐隊に編入され、同時に海上挺進部隊にも所属することになりました。
そして7月からは悪名高き「回天搭載艦」へと改装され、「回天」の基地がある平生へ移ります。そしていわば「海の特攻隊」である「回天」を背負った『梨』には優先的に燃料が回されるようになりました。
しかし7月28日には、山口県の平郡島沖で停泊しているところをアメリカ海軍の艦載機に急襲され、沈没します。その時の死者・行方不明者はあわせて60名にのぼりました。
■『梨』から『わかば』へ…その数奇な運命
本来ならここで「梨」の一生は終わるのですが、沈没したのが浅瀬だったこともあり、1954年には民間企業が引き上げて屑鉄として再利用しようとします。
この時、沈没からすでに9年が経過していましたが、船体の状態が非常によかったことから、当時の防衛庁が買い取ることになりました。そして広島県の呉で再整備を行い、発足したばかりの海上自衛隊に護衛艦「わかば」として配属されることになったのです。

護衛艦いずも 満艦飾
これについては、無駄なコストをかけているとして国会でもだいぶ追及されたようです。最新鋭ではない駆逐艦を引き上げて再就航させるよりも、一から新しく護衛艦を建造する方がいいのではないかと予算面で問題されたのでした。
しかし、当時の防衛庁は一貫して「梨」の再就航にこだわりました。
発足したばかりの海上自衛隊でしたが、旧日本海軍の正統な後継者として誇りをもって組織を育てていこう、という思いが防衛庁にはあったのでしょう。
当時の海自には旧日本海軍の軍人が多く在籍していました。よって、海軍軍人としての誇りを守り士気を高めるためのシンボルとして、「梨」を再利用することは必要だったのでしょう。
その後『梨』は『わかば』と名を変え、海上自衛隊が所有する唯一の旧海軍駆逐艦として活躍することになります。
1962年の三宅島噴火の際には、島民の避難のために駆け付けるなど護衛艦としての能力を十二分に発揮しました。
その後、1971年には除籍。晩年の『わかば』は、海上自衛隊のテストヘッド艦として活用されたそうです。
参考資料
・大日本帝国軍 主要兵器『梨【橘型駆逐艦 十番艦】』
・海上自衛隊が使った唯一の旧海軍駆逐艦 護衛艦「わかば」の数奇な人生 – 乗りものニュース
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