鎖国により長らく海外への門戸を閉ざしていた日本だが、開国すると欧米を始めとする各国から多くの外国人が来日した。
画家であり記者でもあった彼は、混沌とする幕末明治の日本国内で起きた事件を追い、また時には巻き込まれながらも、世界に向けて日本の内情を発信し続けた。
■まさに命がけ…!東禅寺事件を床下から取材
東禅寺事件を描いたワーグマンによるイラスト(Wikipediaより)
ワーグマンはイギリスで刊行されていた『The Illustrated London News』の特派記者として1861年に長崎を訪れ、イギリス公使ラザフォード・オールコックらと共に陸路で江戸へと向かった。
長い旅路を行き、ようやく江戸に到着した一行は、当時イギリス領事館として使用されていた高輪の東禅寺に立ち寄る。しかしその翌日の夜、攘夷思想を持った水戸藩浪士14人が突如として領事館を襲撃したのだ(東禅寺事件)。
この時、ワーグマンは床下に隠れながら事件のあらましを記録していた。そして、その記録と事件を描いたイラストをイギリスへと送るとスクープとなり、大きな話題を呼んだ。

フェリーチェ・ベアトによって撮影された下関戦争(Wikipediaより)
この年からワーグマンは本格的に日本で記者として活動を始める。写真家のフェリーチェ・ベアトと共にイギリス艦隊に同行し、薩英戦争や下関戦争といった事件を取材した。
また、鉄道開通や西南戦争など、明治時代に入っても歴史的な出来事をスケッチとして記録し、世界に向けて日本を発信し続ける。
■ワーグマンが遺したもの―日本人画家、メディアに及ぼした影響

『Japan Punch』1878年7月号表紙(Wikipediaより)
ワーグマンを少々お堅い記者のような書き方をしてしまったが、実はそんなこともない。
彼は横浜居留地に家を構えると『Japan Punch』を出版し始める。
その独特な画風とスタイルは当時の画家や日本メディアに大きな影響を与え、ポンチ絵と呼ばれる新たな浮世絵のジャンルを生み出した。また、『絵新聞日本地(えしんぶんにっポンチ)』『團々珍聞』といった風刺雑誌の刊行も促している。

小林清親によるポンチ絵は『清親ポンチ』と呼ばれた(国会図書館デジタルコレクションより)
光線画で有名な小林清親はポンチ絵を研究していたとされ、『清親ポンチ』はワーグマンの影響が色濃く見える。また、近代日本を代表する画家 五姓田義松や高橋由一らはワーグマンに入門し、彼の師事を受けた。
ワーグマンは日本人の何気ない日常生活をスケッチとして数多く残しており、それらからは彼の日本に対する愛着や親しみを感じる。
実際、1887年に一度イギリスに帰国するも、その後すぐに再来日。日本人女性と結婚し、1891年に58歳で亡くなるまで日本で暮らした。
ワーグマンの命日である2月8日には、彼が眠る横浜山手の外国人墓地で墓前祭が開催される。
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