いつもニコニコしているが、何を言っているかさっぱりわからない好々爺……彼こそは平氏討伐の急先鋒として活躍する佐々木四兄弟の父・佐々木秀義(ささき ひでよし)。康すおんさんの名演技がSNSでも話題となっていました。
「まだまだ、若い者には負けぬわい」頼朝公の挙兵に意気込む秀義(イメージ)
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では源頼朝(演:大泉洋)の挙兵前から馳せ参じ、石橋山の敗戦を生き延びて安房国でもその姿を確認。
史実では死なないことを知っているとは言え、ホッとしています。

鎌倉殿の13人 オフィシャルHPより
さて、こんな感じの秀義ですが、実際のところはどうだったのでしょうか。その生涯を辿ってみると、意外?な一面も見えるでしょう。
■頼朝の挙兵前夜
佐々木秀義は天永3年(1112年)、近江国蒲生郡佐々木荘(現:滋賀県近江八幡市辺り)を領する近江源氏の棟梁・佐々木為俊(ためとし)の子として誕生。
通称は源三(げんざ)、河内源氏の棟梁・源為義(ためよし。頼朝の祖父)の娘聟となっていることから、頼朝にとって義理の叔父に当たります。
この妻からは佐々木太郎定綱(演:木全隆浩)、佐々木次郎経高(演:江澤大樹)、佐々木三郎盛綱(演:増田和也)、佐々木四郎高綱(演:見寺剛)のいわゆる佐々木四兄弟が誕生しました。

佐々木四兄弟の三男・三郎盛綱。年方筆
やがて乱世の機運が高まり、保元の乱(保元元・1156年)や平治の乱(平治元・1159年)では頼朝の父・源義朝(よしとも)に従軍するも、敗れ去ってしまいます。
故郷を追われた秀義一家は、奥州藤原氏を頼るため東国へ流れていく道中、相模国(現:神奈川県)の豪族・渋谷庄司重国(しぶや しょうじしげくに)と意気投合。
「まぁ、ゆっくりしていけよ」とのお言葉に甘え、ちょっとゆっくり20年。
ちなみにこの重国は平家方の人物ですが、そこに匿われている秀義の息子たちは伊豆国に流された頼朝に仕えていました。
20年もお世話になっておきながら、息子たちを謀叛人のお世話に派遣するこの度胸。ただ者ではありませんね。
そして時は流れて治承4年(1180年)、頼朝が平氏討伐の兵を挙げるとの噂を聞いた大庭景親(演:國村隼)から
「佐殿の謀叛計画、都にバレてるぞ。まだ情報は錯綜しているようだから、とりあえずその場はごまかしておいたが、お前の息子たちに『バカな事はするな』って伝えておけよ」
と釘を刺されます。

石橋山で奮戦した四男・四郎高綱。歌川国久「石橋山高綱後殿高名図」
さぁ大変だ……と四兄弟を頼朝に味方させ、五男の義清は景親の娘婿になっていたことから、渋谷重国と共に平家方へ参戦させました。
ちなみに自身は『吾妻鏡』に名前がないため、戦場には出ていないようです。流石に69歳の老齢では足手まといになると思ったのでしょうか。
■エピローグ
その後、鎌倉入りした頼朝によって旧領の佐々木荘を安堵され、現地で余生を過ごします。
しかし元暦元年(1184年)に伊勢・伊賀の両国(現:三重県)で平氏の残党が蜂起した際、これを鎮圧に出陣(三日平氏の乱)。
最終的には鎮圧したものの被害も大きく、秀義は7月19日に討死してしまいます。享年73歳でした。
叔父の死を惜しんだ頼朝はその遺勲を称えるため、死後に近江権守の官職を追贈しています。
父の死を乗り越えて、息子たちはますます活躍するのですが、それはまた別のお話し。
2022年 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」※参考文献:
- 今井尭ら編『日本史総覧 コンパクト版』新人物往来社、1987年7月
- 川合康『院政期武士社会と鎌倉幕府』吉川弘文館、2019年1月
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