■堀景光、義経の使者として頼朝のもとへ赴く

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藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その1】

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源頼朝(出典:ウィキペディア)

源平合戦において、源義経は縦横無尽の活躍を果たします。摂津国の一ノ谷の戦いでは鵯越えで平家軍撃破に貢献。
屋島の戦いでは四国に上陸し、讃岐国の平家陣営に奇襲攻撃を仕掛けて敗走させています。義経は長門国の壇ノ浦の戦いでも「八艘飛び」と言われる戦働きを発揮。配下に敵船の船の漕ぎ手を射させ、船の動きを止めるなど柔軟な戦い方をしていました。

しかし少しずつ、義経や景光主従の運命の歯車が狂い始めます。平家打倒後、帰京した義経は京に凱旋。先年の検非違使の無断任官に続き、伊予守(伊予国の国司)に任じられます。度重なる義経の問題行動は、鎌倉にいる頼朝や坂東武士たちの反感を買っていました。ここで堀景光は、義経と頼朝の間を取り持つべく行動に出ています。

『吾妻鏡』の元暦2(1185)年5月15日の条の記載を見てみます。このとき、義経一行は京から坂東へ下向する途中でした。景光は使者として鎌倉に先行。一行が捕らえた平家の棟梁・平宗盛(清盛の嫡男)と息子の清宗を連れて明日鎌倉へ入りたいと伝えます。


しかし頼朝の返事は素っ気ないものでした。頼朝の舅・北条時政が義経一行の滞在する酒匂の宿場に送った上で、宗盛親子のみを鎌倉に入れることを伝えます。加えて、義経一行が鎌倉入りを果たすことは許さない、という使者・小山朝光も派遣されました。鎌倉入りを許されない義経は、頼朝に対して腰越状を提出。自らの心情を綴って思いを伝えています。

結局、鎌倉入りを許されなかった義経一行は、京へと戻ることとなりました。同年6月には、景光は義経の命で平清宗を斬首しています。やがて京に戻った義経たちには、土佐坊昌俊などの鎌倉方からの刺客が来襲。命を狙われることとなりました。

都落ちを決めた義経一行は、九州行きを決めています。しかし一行は再起を期して西国に落ちる途中、暴雨風に遭ったため散り散りとなります。その後も景光は、武蔵坊弁慶(義経の郎党)や静御前(義経の愛妾)、源有綱(義経の女婿)と共に義経に近侍していました。
景光=金売吉次がどれだけ義経から信頼を受け、心を許されていたかがわかる状況です。

■義経、再び奥州藤原氏を頼る

藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その3】


平泉(出典:ウィキペディア)

頼朝と対立する義経の状況は日を追うごとに悪化していきます。『玉葉』の文治2(1186)年9月20日の条の記載を見てみましょう。

堀景光は当時、京の都にいました。同地で鎌倉方の御家人・糟屋有季が堀景光を発見。身柄を拘束されてしまいました。厳しい拷問を受けたようで、景光は義経について自白を始めていきます。

義経が奈良の興福寺に身を隠していたこと、景光が使者として藤原範季と連絡を取り合っていたことなどが明るみに出ました。しかし肝心の義経一行の足取りは掴めません。むしろ景光は、義経の行方については隠し通しつつ、奥州に行くまでの時間を稼いだ可能性もあります。

実際に義経は奥州藤原氏のもとに身を寄せ、再び秀衡の庇護を受けていました。当時、奥州藤原氏は頼朝ら鎌倉方と対立関係に入りつつありました。
秀衡からすれば、頼朝と対峙するために義経の能力は是非とも欲しいところです。

■金売吉次の最期

藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その3】


陸奥国(出典:ウィキペディア)

堀景光=金売吉次は、その後どうなったのでしょうか?敵方に捕縛された以上、堀景光の扱いも決して楽観視できるものではありません。しかし処刑された、という形跡はありませんでした。

金売吉次としての最期は伝わっているのでご紹介します。『白河風土記』によれば、承安年間(1171~1174年)に皮籠村において、京から奥州への帰途、群盗に襲われて殺されたそうです。金売吉次の方が伝説だとして、実際の堀景光の方はどう処遇されたのでしょう。義経の郎党である佐藤忠信や伊勢三郎らも、鎌倉方に次々と発見されて殺害されています。伝説が本当でなくとも、堀景光もおそらく鎌倉方によって処刑されたことは想像に難くありません。

■義経と奥州藤原氏が滅ぶ

藤原秀衡と源義経を繋いだ男!金商人にして武士でもあった「金売吉次」とは?【その3】


義経最期の地とされる義経堂(出典:ウィキペディア)

文治3(1187)年には、頼朝ら鎌倉方は奥州に義経がいることを察知。同年には庇護者である藤原秀衡が病没し、義経は庇護者を失いました。

この瞬間、義経一行の命運は完全に尽きてしまいます。文治5(1189)年には、奥州藤原氏を継いだ藤原泰衡が鎌倉方の圧力に屈し、衣川館にいる義経一行を襲撃。
自害に追い込んでいます。同年に鎌倉方は、奥州合戦を仕掛けて藤原氏が滅亡。金売吉次=堀景光が仕えた奥州藤原氏も、源義経もこの世から消えてしまいました。

参考文献

  • 板野博行 『眠れないほど面白い吾妻鏡』 三笠書房 2021年
  • 日本博学倶楽部 『源平合戦・あの人の「その後」 伝説・伝承にみる「それから」の人間模様』 PHP研究所 2004年
  • 平谷美樹 「【特集】ササラ風土見聞録」 国土交通省東北整備局HP
  • 「世界遺産登録候補地 長者ヶ原廃寺跡」 奥州市HP
  • 「金売吉次兄弟の墓」 白河市HP

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