■「改易」って何?

江戸時代の歴史を調べていると、よく「改易(かいえき)」という言葉が出てきますね。

お家騒動などで統治に失敗した大名に下される、一種の刑罰です。
しかしこの「改易」という言葉、漠然とニュアンスは分かっても、細かい内容はあまり知られていません。

今回は、この「改易」という言葉の由来や詳しい内容を説明していきます。

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改易という言葉自体は、律令制度の時代からありました。

もともとは、「現職者の解任」と「新任者の補任」のことを意味していましたようです。

鎌倉・室町時代になると、「守護」や「地頭」の変更を意味するようになり、江戸時代になってから、大名や旗本に対して、武士としての身分の剥奪や領地の没収などの処分を意味するようになりました。

改易された大名たちは死罪となり、切腹や斬首となるか、死罪とまでいかなくとも他の大名の監視のもとで蟄居(昼夜とも出入りを許さず自宅の一室に謹慎させること)させられたりしました。

例外的なケースとしては、関ヶ原の合戦で西軍に味方して八丈島に流罪となった宇喜多秀家がいます(ちなみに彼は、加賀前田氏や旧臣からの援助を受けながら、現地で50年間生き延びました)。

関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?

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宇喜多秀家(Wikipediaより)

また、同じく西軍に味方した立花宗茂や丹羽長重のように、一度は改易されたもののその後大名に復帰できた例もあります。

また、有馬晴信は改易処分を受けて死罪となりますが、子の直純が家督を継ぎ、有馬家自体の存続は許されたという例もあります。

ただ有馬家の場合は、直純が徳川家康の娘婿で、なおかつ秀忠のお気に入りだったためとも言われています。このような例はごく少数で、大多数の大名は一度改易処分を受けると復活も許されませんでした。

■「戦後処理」「反乱分子の排除」としての改易処分

大名の改易処分が最初に行われたのは、関ヶ原の合戦のいわば「戦後処理」の時です。
単純化して言えば、勝者である徳川家康が、敵方の西軍に味方した大名たちを改易処分し、自分に味方した東軍大名たちに、褒美として領地を与えたのです。

改易処分を受けた主な武将としては、石田三成・小西行長(斬首)、宇喜多秀家(遠流)、長宗我部盛親(蟄居)などです。

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石田三成(Wikipediaより)

その後、大坂の役で豊臣家が滅亡して戦乱がなくなると、幕府は全国の大名(特に外様大名)の統制方法について頭を悩ませるようになりました。

まず、もともと豊臣家の家臣で、関ヶ原の合戦で東軍についた大名たちをどうするか。江戸時代初期には、こうした外様大名もまだ大きな領地と力を持っており、いかに反乱を起こさせないようにするかが問題でした。

そこで幕府は、次のような大名を改易の対象とします。すなわち、武家諸法度に違反した大名、世継がいないまま当主が死去し、死去直前に急きょ養子(末期養子)を取った大名、お家騒動を起こしたり領民の反乱を招くなどして、統治能力なしと見なした大名などです。

こうして徳川幕府は、大名たちを統制していく一方で、多くの大名を取りつぶして反乱の芽を摘んでいきました。

中には、謂れのない理由で理不尽い改易処分を受けたケースもあります。その代表が福島正則です。

彼は、台風により破壊された広島城の石垣などを、幕府からの正式な許可を得ずに修繕しました。雨漏りの修繕など問題はないはずなのですが、これが武家諸法度違反とされて改易処分を受けています。


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広島城

このケースは、幕府が正則の力を恐れて、わざと許可を出すのを遅らせて罠にかけたともいわれています。

■ルールの調整、そして「減封」「転封」

こうして多くの大名が改易処分となり、幕府の権力は絶対的なものになっていきます。

一方、改易によって職を失い、生活に窮した浪人たちが大量に発生し、徐々に政情不安が高まっていきました。そして1651(慶安4)年に発生したのが由井正雪の乱です。

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これは、軍学者の由井正雪が、幕府に対して不平不満をもつ浪人たちを集めて倒幕計画を立てたものです。

この陰謀は事前に発覚し未遂に終わりますが、これを受けて幕府も「やりすぎた」と、事の重大さに気付きました。

そこでこれまでの方針を改めて、末期養子を条件付きで認めるなど柔軟な対応を取るようになったのです。江戸時代中期以降になると、大名の改易件数は減っていきました。

改易のほか、大名へ下された罰則には「減封(げんぽう)」「転封(てんぽう)」などがあります。

減封は、領地などの一部を削減する処分で、改易よりは軽い処罰です。これの代表としては、関ケ原の合戦後の上杉景勝や毛利輝元などが挙げられます。

また、転封はその大名の領地を別の場所に移すことを指します。
もともとは、江戸時代初期に外様大名を江戸から離れた位置に移動させたり、反対に徳川家に近しい親藩・譜代大名を江戸近辺に移動させる目的で実施されたもので、転封は必ずしも処罰ではありませんでした。

実際、関ヶ原合戦で徳川方についた外様大名たちは領地を加増された上で「転封」となっています。例えば蒲生秀行は42万石の加増で会津へ、池田輝政は36万8千石の加増で姫路へ転封されました。

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池田輝政(Wikipediaより)

徳川幕府は、このように改易・減封・転封などのルールを駆使して、敵対しそうな大名の力を削ぎ、さらに領地の分配をうまく行うことによって統治の基盤を固めました。これはまさに「完成された封建制度」と言えるものです。

こうして徳川幕府は、応仁の乱の時代からずっと続いてきた、血で血を洗う乱世にケリをつけました。このような形の、いわば「戦後処理」をきっちり行うことで、これから200年続くことになる天下泰平の世を作り上げていったのです。

参考資料

  • 歴史伝
  • 日本史用語集

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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