さて。悲しくも鎌倉の「足固め」が出来たところで、源頼朝(演:大泉洋)はいよいよ京都を占領している木曽義仲(演:青木崇高)らの討伐に乗り出します。
と言っても、じっさい現地へ赴くのは異母弟の源範頼(演:迫田孝也)はじめ御家人たちですが……。
範頼・義経に攻められ、敗走する義仲たち。歌川芳虎筆
第16回放送のサブタイトルは「伝説の幕開け」。SNS上では「サイコ」だの「バーサーカー」だのと散々だった戦闘狂・源義経(演:菅田将暉)が待ってましたと大暴れの予定。
義仲を倒し、そして本題の平家討伐へ乗り出しますが、今回は第13回放送「幼なじみの絆」で初登場してから人気を集めていた義仲の最期を紹介。大河ドラマの予習になれば幸いです。
■『吾妻鏡』における義仲の最期
まずは鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』に描かれた義仲の最期を見てみましょう。
蒲冠者範頼。源九郎義經等。爲武衛御使。率數万騎入洛。是爲追罸義仲也。源範頼と源義経たちは、源頼朝の命により数万騎を率いて上洛しました。これは義仲を討つためです。範頼自勢多參洛。義經入自宇治路。木曾以三郎先生義廣。今井四郎兼平已下軍士等。於彼兩道雖防戰。皆以敗北。蒲冠者。源九郎相具河越太郎重頼。同小太郎重房。佐々木四郎高綱。畠山次郎重忠。澁谷庄司重國。梶原源太景季等。馳參六條殿。奉警衛仙洞。此間。一條次郎忠頼已下勇士競争于諸方。遂於近江國粟津邊。令相摸國住人石田次郎誅戮義仲。其外錦織判官等者逐電云々。(以下、義仲と義広の経歴)
※『吾妻鏡』寿永3年(1184年)1月20日条

義仲討伐の軍勢を率いる範頼(イメージ)。歌川芳艶筆
範頼は勢多(瀬田大橋)から、義経は宇治から迂回しての上洛となります。
対する義仲は叔父の志田三郎先生義広(しだ さぶろうせんじょうよしひろ)や今井兼平(演:町田悠宇)らに兵を預けてそれぞれ防がせるも、いずれも敗北してしまいました。
木曽勢を破った範頼と義経は、河越太郎重頼(かわごえ たろうしげより)・河越小太郎重房(こたろうしげふさ)・佐々木四郎高綱(演:見寺剛)・畠山次郎重忠(演:中川大志)・渋谷庄司重国(しぶや しょうじしげくに)・梶原源太景季(演:柾木玲弥)を引き連れて朝廷を警固。
身の安全を確保されて、後白河法皇(演:西田敏行)らは大いに安堵したことでしょう。
そうしている間にも、一条次郎忠頼(いちじょう じろうただより。武田信義の子)らは京都から落ちて行った義仲を討つべく追撃します。
近江国粟津(現:滋賀県大津市)あたりで義仲は石田次郎為久(いしだ じろうためひさ)によって討ち取られたのでした。
志田三郎先生義広(錦織判官)ら残党はどこへともなく逐電したとのことです。
■『平家物語』が描く義仲の最期・巴御前との別れ
『吾妻鏡』における義仲の最期は、かいつまんでしまえば「範頼と義経に攻められて都を追われ、近江国で討たれた」という実にあっさりしたもの。
それではつまらないと思ったのか、「講釈師 見て来たような……」とばかりに詳しく状況を書き記したのが軍記物語『平家物語』巻第九「木曽殿最期」。
こちらは史実性より面白さを重視。情景たっぷりに描かれているので、読みごたえも十分です。
原文はちょっと長すぎるので、「木曽殿最期」のクライマックス部分だけ掻いつまんで見て行きましょう。
「昔は聞きけん者を、木曽の冠者、今は見るらん。左馬頭兼伊予守、朝日の将軍、源義仲ぞや。甲斐の一条次郎とこそ聞け。互ひによい敵ぞ。義仲討つて兵衛佐に見せよや」かねて噂に聞いているであろう木曽冠者を、今はその目に焼きつけろ。我こそは左馬頭(さまのかみ)にして伊予守(いよのかみ)、法皇猊下より朝日の将軍と讃えられた源義仲である。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
そこにいるのは甲斐の一条次郎か、相手にとって不足はない。我が首級を獲って佐殿(頼朝)に見せてやれ……と義仲が百騎ばかりで突撃。すると一条次郎も負けていません。

武勇を奮う一条忠頼。勝川春亭筆
「只今名乗るは大将軍ぞ。余すな者ども、散らすな若党、討てや」野郎ども聞いたか、今名乗ったのは大将軍・木曽義仲。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
100対6,000……この60倍の兵力差にも怯むことなく、義仲たちは当たるが幸い、縦横無尽。
縦様(たてざま)、横様(よこざま)、蜘蛛手(くもで。×字)、十文字(じゅうもんじ)……好き放題に暴れ回って敵の大軍を突破すると、義仲たちは50騎ほどに減っていました。
次は土肥次郎実平(演:阿南健治)が率いる二千余騎の大軍へ突入。50対2,000で今度の兵力差は40倍。さっきよりはマシかも知れませんが、こっちも兵力が減って疲労も蓄積しています。
それでもあっちに4~500騎、こっちに2~300騎……と戦い続けるうち、気づけば主従5騎だけ(義仲、兼平、巴御前、手塚太郎光盛、手塚別当)に。

巴御前の奮闘。歌川国安筆
その中には、今井兼平も巴御前(演:秋元才加)も生き残っていました。しかしいよいよ最期を悟った義仲は、巴御前に伝えます。
「己は女なれば、いづちへも行け。天下に知られた木曽義仲が、最期まで女連れだったと知られてはみっともない……当時の価値観からすれば至極当然ながら、巴御前は一騎当千の女武者。我は討死せんと思ふなり。もし人手にかからば自害をせんずれば、木曽殿の最後の軍に、女を具せられたりけりなんどいはれん事もしかるべからず」
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
女だからとナメられてたまるもんかという意地か、それとも義仲を慕って最期まで一緒にいたかったのか、いずれにせよなかなか聞き入れてくれません。
しかし、結局は義仲の思いを尊重した巴御前。
「あつぱれ、よからう敵がな。最後の軍して見せ奉らん」いいでしょう。私が決して臆病でも非力でもないことを証明できる敵を倒して、最後のご奉公とさせて頂きましょう。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
そこへ襲来したのは武蔵国の住人・御田八郎師重(おんだ はちろうもろしげ)。近郷でも名の知れた怪力の持ち主でした。
さっそく巴御前は単騎で敵中へ殴り込み、御田八郎師重を馬から引きずり落とすと自分の鞍に押しつけて、その首をねじ切ったと言います。

敵の首をねぢ斬らんとする巴御前(イメージ)
……武蔵国に聞こえたる大力、御田の八郎師重、三十騎ばかりで出で来たり。巴、その中へ駆け入り、御田の八郎に押し並べて、むずと取つて引き落とし、我が乗つたる鞍の前輪に押し付けて、ちつとも動かさず、首ねぢ斬つて捨ててんげり。首ねぢ斬つて捨ててんげり……よもや素手でねじ切ったのか、恐らくは脇差(短刀)で掻き切ったのでしょう。それでも巴御前の武勇がすぐれていたことは疑いようもありません。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
(ただし『吾妻鏡』には登場しないため、実在性に疑いの余地はありますが……)
かくして最後の奉公を果たした巴御前は武器を放って鎧も脱ぎ捨て、東国の方へと落ち延びていったのでした。
■『平家物語』が描く義仲の最期・今井兼平の忠義
その後、手塚太郎光盛(てづか たろうみつもり)は義仲を守って討ち死に。その父である手塚別当(べっとう。諱は不詳)は老齢であったためか暇を賜わり、どこへともなく落ち延びて、もはや義仲と兼平の主従二騎に。
ここへ来て、義仲は弱音を吐きます。
「日来は何とも覚えぬ鎧が、今日は重うなつたるぞや」いつもは当たり前に着ている鎧が、今日はずいぶん重く感じる……義仲は心身ともに参ってしまっているようです。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より

最期まで義仲を励まし続ける兼平。歌川芳員「粟津合戦 今井四郎打死之図」
しかし、兼平は気丈に励まし続けました。
「御身もいまだ疲れさせ給はず。御馬も弱り候はず。何によつてか、一領の御着背長を重うは思し召し候ふべき。それは御方に御勢が候はねば、臆病でこそさは思し召し候へ。兼平一人に候ふとも、余の武者千騎と思し召せ。矢、七つ八つ候へば、しばらく防ぎ矢仕らん。あれに見え候ふ、粟津の松原と申す。あの松の中で御自害候へ」何をおっしゃいますか。全然お疲れではありませんし、愛馬も弱ってはおりませぬ。たった一着の御着背長(おんきせなが。着背長は大鎧の美称)が重いなんて気のせいにございましょう。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
まぁ左様に感じられるのは、御殿に味方がいないから気弱になっているだけのこと……しかしご案じ召さるな。この兼平はまさに一騎当千、そこいらの武者千騎よりも恃みになりますぞ。
ここに矢が七、八筋(本)ほどございますれば、しばし時間を稼ぎます。御殿はあそこに見える粟津の松原へ入って立派にご自害召されますように。
人は必ず死ぬもの、大切なのはただ生き延びることより、いかに立派な最期をしめくくるか……少なくとも、往時の武士たちはそのように考えていました。
さすがは乳兄弟、まさに忠臣の鑑と言える兼平ですが、義仲はすっかり気弱になられてしまったご様子。
「義仲、都にていかにもなるべかりつるが、これまで逃れ来るは、汝と一所で死なんと思ふ為なり。所々で討たれんよりは、一所でこそ討死をもせめ」本当は京都で死ぬはずだったのがここまで逃げて来たのは、そなたと一緒に死にたかったからだ。別々に死ぬなんて嫌だ。一緒に戦って死のうじゃないか……現代人としては理解できる心情ですが、それでも兼平は譲りません。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より

死してなお朽ちぬ名こそ、武士の本望。秀輝筆「旭将軍 木曽義仲」
「弓矢取りは、年来日来いかなる高名候へども、最後の時不覚しつれば、長き疵にて候ふなり。御身は疲れさせ給ひて候ふ。続く勢は候はず。敵に押し隔てられ、いふかひなき人の郎等に組み落とされさせ給ひて、討たれさせ給ひなば、さばかり日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、某が郎等の討ち奉つたるなんど申さん事こそ口惜しう候へ。ただあの松原へ入らせ給へ」いいですか。終わりよければ……じゃありませんが、武士と言うのは日ごろどれほど活躍して名を挙げても、その最期をしくじればすべて水の泡なのです。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
日本国にその名も知られた木曽殿が、名もなき者に首級を挙げられてしまうのは、悔しくてなりません。
さぁさぁ、あの松原へ入って立派な最期を遂げて下され。それがし、最期まで敵を防ぎますから……兼平の忠義に感動した義仲は、ついにただ一人で松原へ向かったのでした。
■『平家物語』が描く義仲の最期・兼平の奮戦虚しく……
義仲を見送った兼平は、ここが最期の晴れ舞台と大音声に呼ばわります。
「日来は音にも聞きつらん。今は目にも見給へ。木曽殿の御乳母子、今井の四郎兼平。生年三十三にまかりなる。さる者ありとは、鎌倉殿までも知し召されたるらんぞ。兼平討つて見参に入れよ」噂に聞いたことはあるだろう、今こそ眼(まなこ)に焼きつけろ。我こそは木曽殿が乳兄弟なる今井四郎兼平。殺せる者がいないから、今年で三十三歳になってしまった。とうぜん鎌倉殿も知っていよう(=大手柄になる)から、我が首級を獲ってご覧に入れるがいい!
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
言うなり兼平は残った矢を次々に射放ち、いちいち生死は確かめていないものの、ことごとく馬から射落とされます。
矢が尽きれば弓を擲ち、白刃を抜き放って縦横無尽に斬り回りました。あまりの強さに怯んだ敵は遠巻きに射殺そうと矢を放ちますが、鎧が丈夫であったので鏃(やじり)が貫通せず、傷も満足に与えられません。
一方の義仲は、ただ一人で松原を駆け抜けていました。しかし入相(いりあい。夕暮れ)時だったため薄氷の張った深田に気づかず乗り入れてしまい、馬の顔が見えぬほど沈み込んでしまいます。

石田為久に射られる義仲。歌川国芳「勇魁三十六合戦 八」
あぁ、どうしよう……不安に背後を振り向いた義仲の内甲(うちかぶと。兜をかぶっている内側。無防備になりやすい部分)を石田次郎為久に射られて重傷を負った隙に首級を獲られてしまいました。
「この日来、日本国に聞こえさせ給ひつる木曽殿をば、三浦の石田の次郎為久が討ち奉つたるぞや」その名乗りを聞いた兼平は、まだ充分に戦えたものの、もはや戦う理由を失い自決します。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
「今は誰を庇はむとてか軍をもすべき。これを見給へ、東国の殿ばら。日本一の剛の者の自害する手本」戦う理由がなくなった以上、これ以上の抵抗は無益……「坂東武者ども、よう見ておけ!自害の手本を見せてやる!」兼平は大音声で叫ぶなり、太刀の切先をくわえて馬を飛び降りました。
※『平家物語』巻第九「木曽殿最期」より
その刃は兼平の喉を貫き、そのまま絶命したという事です。
■終わりに
以上、『吾妻鏡』と『平家物語』が伝える木曽義仲・今井兼平の最期を紹介しました。
すっかり気弱になってしまった義仲をどこまでも励まし、立派な最期を遂げさせてやりたい兼平の忠義は、後世まで乳兄弟の絆を示す鑑として伝えられます。
石橋山で裏切った頼朝の乳兄弟、山内首藤経俊(演:山口馬木也)に教えてやりたいですね。

松の樹を引っこ抜いて振り回し、和田義盛と一騎討ちを演じる巴御前。一説には、後に義盛に嫁いで稀代の豪傑・朝比奈三郎義秀を生んだと言う説も。歌川芳員「粟津ヶ原大合戦之図」より
果たして東国へと落ちていった巴御前はこのまま退場してしまうのか、あるいは義仲より重要な役割を託されるのでしょうか。
大河ドラマではこれらをどれくらい再現しつつ、三谷アレンジを加えてくるのか、今から楽しみにしています。
※参考文献:
- 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 2平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
- 佐藤謙三 校註『平家物語 下巻』角川ソフィア文庫、1959年9月
- 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 前編』NHK出版、2022年1月
- 『NHK2022年大河ドラマ 鎌倉殿の13人 完全読本』産経新聞出版、2022年1月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan