神護寺蔵 伝源頼朝公肖像
「知ってるよ。
「て言うか、まだ源頼朝(みなもとの よりとも)なんて思ってる人いるの?」
世情に敏(さと)い方々からそんな声も聞こえてきそうですが、果たして本当にそうでしょうか。
頼朝だ、いや直義だ……論争はいまだに決着をみないため、とりあえず昨今は「伝」源頼朝肖像、つまり「(実際のところは不明だけれど)源頼朝と伝わってきた肖像」という扱いにされています。
ちなみに、この肖像画が「頼朝公ではなく、足利直義である」という新説が提唱されたのは平成7年(1995年)。
美術史研究者である米倉迪夫氏がその著書『源頼朝像』において主張され、昨今ではこの新説が主導権を握った感があります。
しかし、筆者はこちらの肖像画を頼朝だと確信しています。もちろん、そう言うからにはそれなりの根拠も示さねばなりません。
そこで今回はなぜ、この肖像画が頼朝だと言えるのか……その理由について、一説を紹介。昔の日本人が、どういうことを重んじて来たのか、その美意識にご共感いただけたら嬉しいです。
■カギは頼朝が「右」近衛大将であったこと
まず、肖像画というものは何のために描くのでしょうか。

自らの惨敗した姿をあえて描かせた徳川家康のしかみ像。
徳川家康(とくがわ いえやす)が自らを戒めるためにあえてカッコ悪い姿を描かせた「しかみ像」のような例外はあるものの、基本的にはその人を顕彰するため、最高の状態を描くのが基本です。
頼朝や直義の最高な状態……それを客観的に示す基準として、極官(ごくかん)が挙げられるでしょう。
頼朝はもちろん征夷大将軍……と言いたいところですが、征夷大将軍はあくまでも国家の大事に際して臨時で任命される官職なので、常設官職では右近衛大将(うこのゑのたいしょう)が極官です。
対する直義は左兵衛督(さひょうゑのかみ)が極官……この両者の「右」と「左」が肖像画論争の決め手になります。

「左兵衛督」足利直義。歌川国芳筆
この「右」とか「左」とは何なのか……ごくざっくり言えば、天皇陛下から見て右手側に控えるか、左手側に控えるかの違いです。
古来「君主南面す」と言うように、日本国の君主である天皇陛下は基本として北に座られて南を向かれます。
※平安京の西側を右京・東側を左京と呼んだのと同じです。
仮に頼朝と直義が天皇陛下の左右に控える様子を肖像画に描く時、頼朝は右(東)を向き、直義は左(西)を向きます。
※頼朝も直義も、実際に天皇陛下のおそばへ控えたことはなかったでしょうが、あくまで官職の建前的な話です。
しかし、なぜ肖像画の主が天皇陛下のおそばに控えていると判るのか……貴族の正装である束帯(そくたい※)をまとっていることから、高貴な場所にいることは明らか。
(※)よく衣冠束帯(いかんそくたい)とセットにして言いますが、衣冠は夜(宿直)の正装、束帯は昼の正装となります。

天皇陛下と臣下たちの位置関係(イメージ)
そして日本人にとって、天皇陛下のおそばよりも高貴で晴れがましい場所は存在しません。
よってこの肖像画の主は天皇陛下のおそばに控えており、右を向いていることから「左兵衛督の直義よりも、右近衛大将の頼朝である可能性が高い」と言えるでしょう。
え、逆視点から逆向きに描いた可能性ですか?あり得ません。なぜなら天皇陛下と同じ視点で人物を見る(描く)なんてことは不敬に当たりますし、舞台裏から演劇を観賞する人がいないようなものです。
■まとめ
以上、アノ肖像画が頼朝である(少なくとも、足利直義よりは可能性が高い)根拠について紹介して来ました。
「肖像画なんて、好き勝手に描いてンじゃないの?」

中村不拙筆・頼朝公肖像。やはり古式に則り、ちゃんと右を向いている。
現代的な感覚ではそう思ってしまうかも知れませんが、そもそも肖像画の目的を考えたら、人生において最も栄誉ある姿を描きたい(遺したいor伝えたい)のが人情というもの。
かつての日本人が、何を大切にしていたか。その精神にふれる(または原点に立ち返る)ことによって、歴史探究にもまた新たな発見や喜びが得られるかも知れませんね。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 米倉迪夫『源頼朝像 沈黙の肖像画』平凡社、2006年6月
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