Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。
突然ですが、「パンパン」という言葉を聞いた事があるでしょうか。

「パンパン」とは、戦後混乱期の日本で、主として在日米軍将兵を相手にした街娼です。彼女たちの多くは戦争で家族や財産を失って困窮し、売春に従事することを余儀なくされた女性でした。

戦争の被害者。第二次世界大戦後の米兵相手の娼婦「パンパン」は...の画像はこちら >>


■どうしてパンパンは生まれたか

日本の第二次世界大戦敗戦後間もなく設置された特殊慰安施設協会 (RAA) の廃止(1946年3月26日)に伴い、職を失った売春婦が街頭に立ちパンパンとなったとも、RAAと並行して存在していたとも言われています。

1947年時点の推計で、東京に3万人、六大都市合計で4万人のパンパンがいたとされ、東京では主に上野、新宿、有楽町で活動しました(それぞれ隠語でノガミ、ジュク、ラクチョウ)。

■インタビューに残る悲痛な叫び

彼女たちは「パン助」などとも呼ばれ軽蔑されましたが、「ラクチョウのお時」という名で呼ばれた有名なパンパンが、 ラジオ番組『街頭録音』で取り上げられた際にインタビューで次のように述べ、大きな反響を呼びました。

「 そりゃ、パン助は悪いわ、だけど戦災で身寄りもなく職もない私たちはどうして生きていけばいいの、好きでこんな商売をしている人なんて何人もいないの、それなのに苦労して堅気になって職を見つけたって、世間の人はあいつはパン助だって指さすじゃないの。

私は今までに何人も、ここの娘を堅気にして送り出してやったわよ。それがみんな(涙声)いじめられ追い立てられて、またこのガード下に戻ってくるじゃないの。世間なんていいかげん、私たちを馬鹿にしてるわ」

■差別が社会復帰を妨げた

この時お時さんは有楽町で約500人のパンパンを率いるやり手の立場をつとめていたため、女性たちの母親代わりのような存在でした。

お時さんのインタビューからは一度パンパンになった女性は激しい差別を受け、なかなか他の職に就く事が難しかったという辛い現実が垣間見えます。

戦前は学校に通ったり大切な家族が居たり、普通に生活していた彼女たちが、戦争のせいで社会的に孤立してしまったという悲しい歴史の一つです。


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