その中には本記事でご紹介する「ジュリアおたあ」もいました。彼女は徳川家康の侍女(側に仕える女性)となり数奇な人生を歩んだ人物。
今回は、捕虜から徳川家康の侍女になったジュリアおたあの人生をご紹介します。
■朝鮮から日本へ
捕虜となる前のジュリアおたあに関する記述は残念ながらありません。そのため、生まれや両親といった身辺情報は不明です。しかし、一説には李氏朝鮮の貴族の娘ではないかとの指摘もあります。
ジュリアおたあが日本へ連行されることになったきっかけは、天正20年(1592年)の文禄の役。平壌へ侵攻した小西行長に保護されました。小西家では養子として扱われます。

小西行長/Wikipediaより
小西家が薬屋を稼業としていた影響もあり、ジュリアおたあは薬学の知識を深めていきました。
また、小西行長がキリシタン大名だったためにジュリアおたあも洗礼を受けます。この時に洗礼名の「ジュリア」を授かりました。
■徳川家康の侍女になる
そんなジュリアおたあに、人生を一変するある出来事が訪れます。それは慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いです。関ヶ原の戦いで父の行長は斬首。残されたジュリアおたあは、以前からジュリアおたあの器量を知っていた徳川家康に召し抱えられました。

徳川家康/Wikipediaより
ジュリアおたあは、駿府城の大奥にて侍女として家康に仕える傍らで、祈りや聖書を読むことを欠かさず行いました。また、夜の空いた時間で他の侍女たちをキリスト教に勧誘したとされています。
■キリスト教のため、流罪となる
キリスト教に従事していたジュリアおたあに家康は、慶長17年(1612年)に発布された禁教令を背景に棄教を要求します。もちろん、ジュリアおたあは拒否。
このことと家康の側室になることを拒んだことが重なり、ジュリアおたあは伊豆諸島の伊豆大島に流罪となります。
家康は伊豆大島にジュリアおたあに棄教を迫る使者を送りますが、それでも拒否しました。そのため伊豆大島から新島に移り、最後は神津島(こうづしま)に移されました。

神津島/Wikipediaより
新島や神津島への移動も、ジュリアおたあが棄教を拒否したことが原因となっています。
■ジュリアおたあのその後
ジュリアおたあは、フランシスコ・パチェコ神父が記した元和8年(1622年)の書簡にて、神父の援助で神津島から大坂へ移動。その後、長崎へ移ったとの記録が残っています。
長崎以後の記録が残っていないため、ジュリアおたあの最後は残念ながらわかりません。
また、神津島にある供養塔がジュリアおたあのお墓という説も出ています。そのため、神津島では毎年5月に、ジュリアおたあをしのぶ祭りであるジュリア祭が開催されています。
■最後に
小西家の薬学に精通したり、徳川家康に侍女として召し抱えられたりと濃い人生を歩んだジュリアおたあ。ここまで偉人たちから重宝された背景から、彼女が才気あふれる人物だったことが容易に想像できます。
李氏朝鮮の貴族の娘という説が出てもおかしくはないですね。
参考:谷真介『ジュリア・おたあ』
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan