かの島津義弘は、関ケ原の戦いで有名な「捨て奸(すてがまり)」というある種の玉砕戦術を採用しています。
死亡率100パーセント!日本史上唯一の玉砕戦法「捨て奸(すてがまり)」とは!?
それにしても、なぜこの壮絶な戦術が必要になったのでしょうか。
島津義弘は薩摩国(現在の鹿児島県)の武将です。兄である戦国大名・島津義久を補佐し、島津家の勢力拡大に尽力していました。豊臣秀吉とは九州平定の際に一戦交えたものの、その後は秀吉に協力し、朝鮮出兵にも参戦しています。
島津義弘(Wikipediaより)
その勇猛果敢で鬼気迫る戦い方から、義弘は朝鮮・明軍から「鬼石曼子(グイシーマンズ)」と呼ばれ恐れられたといわれています。
義弘は秀吉と良好な関係を保っていましたが、長年九州を支配してきた島津家の中には秀吉に従うことに不満を持つ家臣が多く、中央政権の命令や要請に対して非協力的な態度をとる者も少なくありませんでした。
そして秀吉の死後、関ケ原の戦いが起こる直前の1599年に、島津家中で「庄内の乱」が勃発します。
■義弘、東軍につくも…
庄内の乱は、義弘の三男である島津忠恒によって重臣・伊集院忠棟が殺され、その子である伊集院忠真が反乱を起こしたものです。
この内乱によって島津家中の兵力は疲弊し、内部分裂がさらに進むことになります。
これを治めたのが徳川家康でした。

徳川家康(Wikipediaより)
義弘は御礼のために家康を訪問した折、「上杉景勝が上洛に応じない場合は自身も出陣する」旨を伝えたといいます。
そして家康は、そんな義弘に伏見城の留守を命じました。
義弘は伏見城を守り切ることを決め、島津家に増援の兵を要請しますが、一向にやってきません。義久の影響を受けた島津家臣たちが援軍派遣を渋っていたのです。
戦力が心もとないなか義久は伏見城に向かいますが、なんと伏見城の留守居役である鳥居元忠に西軍とのつながりを疑われ、入城を拒否されてしまいます。
■不本意な孤立
島津家からの援軍要請も叶わず、入場も拒否され、義弘の率いる軍はたったの1000人。ひどい話で、この少数の軍が、西軍の軍勢4万人の中で孤立してしまったのです。

伏見城
やむなく義弘は、東軍ではなく西軍として関ケ原の戦いに参戦することを決めます。
なお、家康が上杉景勝の討伐に向かう頃に、義弘が景勝に対して「景勝に味方すること」を伝える書状を送ったともいわれ、実はすでに西軍での参戦を決めていたのではないかという説もあります。
西軍として参戦に至るまで不明な点は若干あるものの、こうして島津家で起きた内乱が大きく影響し、義弘は少ない兵力で関ケ原の戦いに参戦するという状況に陥ったのでした。
ちなみに、その後も島津家からの援軍派遣はありませんでしたが、自らの判断で義弘の下に馳せ参じるべく、兵を引き連れて九州を出た家臣達がいます。九州に残る島津義久もそれを止めることはありませんでした。
義弘を慕って共に戦うべく集まった家臣たちによって、義弘の軍は最終的に1500人の軍勢になったといいます。
後半では、義弘の退却戦について説明します。
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