巌流島の戦いでは二刀流の宮本武蔵に敗れていますが、剣豪として名高い人物です。
一方で、実名や出生など不明なことも多く、謎が多い人物でもあります。
歌川国芳 画
■一乗滝で編み出した小次郎の必殺技
「燕返し」を編み出した剣術の天才と噂された佐々木小次郎は、関ヶ原の合戦のあとから細川家の剣術師範として細川家当主・細川忠興に仕えました。
そんな、小次郎が得意としたのが秘剣「燕返し」。
全国を旅しながら剣術修行している途中、福井県にある「一乗滝」で編み出したとされる技です。先に刀を振り下ろした相手に対して、跳ねながら長刀で斬り上げるといった刀法で、相手の意表を突くことが最大の利点でした。
■小次郎の愛刀は「物干し竿」
燕返しを習得した小次郎は刀身1mを超える「備前長船長光(びぜんおさふねながみつ)」と言う刀を愛用していたと言います。当時、日本を統一していた徳川家康が「刀の長さを約87.5cm以内に収めるように」とお触れを出していたこともあり、備前長船長光の刀身の長さを見た人々は「物干し竿」と例えて大変珍しがったのだとか。
■「物干し竿」の製作者
諸説ありますが、一説では備前長船長光の息子である「将監長光」が製作したとしています。この「備前長光」と名の付く刀は名刀として名高く、現存する刀の多くが国宝や重要文化財として、博物館や美術館に展示されるほどです。
しかし、残念ながら小次郎が実際に愛用したとされる刀は現存されていません。熊本県にある「武蔵博物館」ではレプリカが展示されているようです。
■巌流島の戦いが起こった理由
実力を伸ばし細川忠興に認められた佐々木小次郎ですが、古くから細川家に仕える重臣たちは快く思いませんでした。
そこで、彼らは佐々木小次郎を排除するために、京都最強と言われ60戦無敗を誇っていた宮本武蔵と試合をさせることを画策。
結果、巌流島の戦いでは宮本武蔵が圧倒的な勝利を収めました。

宮本武蔵
■小次郎の本当の死因
一般的には巌流島の戦いで宮本武蔵に敗れて、小次郎が死んだとされています。
ですが、このとき宮本武蔵は木刀で戦っており、佐々木小次郎は死んでいなかったと言う説があるのです。
細川氏に仕えた家老「沼田延元」の家系が代々まとめたとされる「沼田家記」によると「巌流島の戦いにて宮本武蔵の一撃で打ち倒された佐々木小次郎。奇跡的に息を吹き返すも、武蔵の弟子らに撲殺」と記述されていることがわかります。
真実は不明ですが、この日誌は多方面に聞き取りして作成されており、信憑性が高いようです。
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