将軍(主君)は御家人に対して御恩を与え、御家人(家臣)は奉公で将軍に報いる主従関係が、幕府による支配体制を維持していました云々。
鎌倉幕府に仕えた御家人たち(イメージ)
ところで御家人と一口に言っても、その定義は何でしょうか。ざっくり言えば御家人とは「幕府に仕える武士」。であれば鎌倉幕府はあらゆる武士たちの頂点に君臨しているのだから、すべての武士が御家人だったのかと思えば、実はそうでもなかったようです。
■頼朝に仕えた者と、その子孫を御家人とする。
確かに幕府は全国の武士(及びその領民)たちを支配していました。しかし武士たちの多くは幕府と直接の主従関係になく、御家人は武士の中でもごく限られた階層に属していました。
となると御家人は幕府の威光を後ろ盾に何かと有利であったため、その地位は垂涎の的だったようです。
そこで幕府の目が行き届きにくい地方(特に西国)では、その資格がないのに御家人を自称する事例が相次いだとか。
「そんなのすぐにバレるでしょ」と思ってしまうのは現代的な感覚で、当時は何と鎌倉幕府の当局も誰が御家人で誰がそうでないか、その総数や顔ぶれをすべて把握できていなかったと言います。
現代に譬えるなら「公務員だと名乗ったモン勝ち」みたいなもので、それがまかり通ってしまっていたのが鎌倉時代。恐ろしくザルですね。

集結した武士たち。
とは言え、この事態に手をこまねくばかりではなく、鎌倉幕府当局も対策を講じています。
一つ、御家人たるべき輩の事、 弘安十 五 廿五御沙汰時代が下るにつれ、祖先が恩賞として賜った所領を失ってしまった御家人が多かったことが察せられます。
祖父母、御下文を帯するの後、子孫、所領を知行せざると雖も、御家人として安堵せしむるの条、先々の成敗に相違すべからず。但し其の身の振る舞いに依り、許否の沙汰あるべきか。
※「御成敗式目」追加法第609条、弘安10年(1287年)5月25日付
【意訳】御家人の定義について、弘安10年(1287年)5月25日に取り決めた。
祖父母が頼朝公の時代にいただいた御下文(おんくだしぶみ)を持っている者は、所領がなくても御家人として認めることは、以前に判例が出た通りである。ただし、本人の振る舞いによって許否を判断する場合もある。
「それでもかつて所領を賜った証文があるなら、御家人として認めてやろう」という救済と、御下文を持たないニセ御家人の排除が図られたのでした。
ただし、せっかく証文を持っていても御家人に相応しくない振る舞いの者については、祖先の功績(御家人の資格)を取り消すと釘を刺しています。
幕府はさらに、御下文の効力を曾祖父にまで拡大しました。
一つ、御家人たるべき輩の事、先の条文と合わせて「曽祖父または祖父母の世代が頼朝に仕えていたことが証明できる者」つまり「頼朝に仕えた者の子孫」が御家人の定義とされたようです。
曾祖父の時、御下文を成さるるの後、子孫、所領を知行せざると雖も、御家人として安堵せしむべきか。
正応六年五月廿五日 評定
※「御成敗式目」追加法第639条、正応6年(1293年)5月25日付
■終わりに

たとえ時代は隔てても、心は常に頼朝に仕え続けた御家人たち。落合芳幾「源頼朝旗上筏渡之図」より
時代が下るにつれて諸事情から所領を手放さざるを得ないほど落ちぶれても、頼朝時代からの絆はずっと変わらない。実態はともかく、そのような草創期の理想を求め続けたことが判ります。
(一時は西国における支配体制を確保するべく、御家人の新規登録を図ったいわゆる「鎮西名主職安堵令」が出されたものの、先の二ヶ条により反故とされた形です)
最期まで「頼朝の武士団」であろうとした鎌倉幕府。彼らの心には、いついかなる時も(会ったことさえなくても)頼朝が君臨し続けていたのでしょう。
※参考文献:
- 細川重男『頼朝の武士団 鎌倉殿・御家人たちと本拠地「鎌倉」』朝日新書、2021年11月
- 上横手雅敬 編『鎌倉時代の権力と制度』思文閣出版、2008年9月
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