鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』。そこには征夷大将軍や執権といった著名人から、身分の低い召使いにいたるまで、さまざまなエピソードが収録されています。


召使いと言えば当時は雑色(ぞうしき。色は職が転じたものか)などと言われ、文字通りさまざまな雑用に従事していました。

今回は源頼朝(みなもとの よりとも)に仕えた二人の雑色・鶴太郎(つるたろう)と鶴次郎(つるじろう)を紹介。果たして彼らは、どんな活動に勤しんでいたのでしょうか。

■親子で受け継がれた?雑色のノウハウ

『吾妻鏡』を見ると、鶴太郎と鶴次郎は同時に登場することがありません。

鶴太郎が登場するのは、頼朝が挙兵した治承4年(1180年)から平家討伐の本格化する元暦元年(1184年)までの2回。

一方で鶴次郎の登場は、頼朝が全国に守護地頭の設置を認められた文治元年(1185年)から東大寺が再建された建久6年(1195年)までの7回。

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鶴太郎と鶴次郎(イメージ)

両者が交代するように登場しているため、鶴太郎が引退した跡を鶴次郎が継いだ可能性も考えられます。

当時は家業を継ぐのは当たり前でしたから、親から子へと雑色としてのノウハウを受け継いだのかも知れません。

「いいか、佐殿にお仕えする上での注意点は……」

主人の好みや価値観、嗜好などを伝えさせることで、雇う側としても使い勝手がよかったのでしょう。また子供の時から顔見知りだと、ツーカーの関係になれそうです。

しかしまぁ「そうだったのかも知れないな(そうだったら面白いな)」というところに留めておいて、さっそく二人の記録を辿っていきましょう。


ちなみに、父が鶴太郎で子が鶴次郎なら、孫は鶴三郎……かと思いきや、残念ながら『吾妻鏡』に登場していないため、三代目は襲名されなかったようです(できれば鶴十郎とか鶴十一郎とか見たかったです)。

■鶴太郎、走る!

……又今日令進發駿河國給。平氏大將軍小松少將惟盛朝臣率數万騎。去十三日到着于駿河國手越驛之由。依有其告也。今夜。到于相摸國府六所宮給。於此處。被奉寄當國早河庄於箱根權現。其御下文。相副御自筆御消息。差雜色鶴太郎。
被遣別當行實之許。御書之趣。存忠節之由。前々知食之間。敢無疎簡之儀。殊以可凝丹祈之由也。御下文云。

奉寄 筥根權現御神領事
相摸國早河本庄
爲筥根別當沙汰。早可被知行也
右。件於御庄者。爲前兵衛佐源頼ー沙汰。所寄進也。
全以不可有其妨。仍爲後日沙汰。注文書。以申。
治承四年十月十六日

※『吾妻鏡』治承4年(1180年)10月16日条

時は治承4年(1180年)10月16日、京都から源氏討伐に攻めて来た平維盛(たいらの これもり)を迎え撃つべく、頼朝は鎌倉から出陣しました。

「……これを箱根の別当殿へ」

「へぇ」

書状を渡された鶴太郎は、さっそく箱根権現(現:箱根神社)で別当を務めている行実(ぎょうじつ)に届けます。

その内容は「早川の荘園(現:神奈川県小田原市)を寄進します。なので平家の大軍に勝利できるよう、いつもより熱心に祈祷して下さい」といったものでした。

二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】


富士川で平家の大軍を迎え撃つ頼朝。その勝利に鶴太郎も後見した?歌川国芳筆

もちろん鶴太郎が文面を見る筈もなかったでしょうが、決戦に臨む頼朝の緊張した面持ちから使命の重要性を実感したはずです。

武衛被遣御書於泰經朝臣。是池大納言。
同息男。可被還任本官事。并御一族源氏之中。範頼。廣綱。義信等可被聽一州國司事。内々可被計奏聞之趣也。大夫属入道書此御書。付雜色鶴太郎云々。

※『吾妻鏡』元暦元年(1184年)5月21日条

少し月日は流れて元暦元年(1184年)5月21日。頼朝が京都にいる高階泰経(たかしな やすつね)に書状を送りました。

「……これを高階殿へ」

「へぇ」

書状には「平頼盛(たいらの よりもり。
清盛の弟)とその子・平保盛(やすもり)の政界復帰と、源範頼(のりより。頼朝の異母弟)・太田広綱(おおた ひろつな)・大内義信(おおうち よしのぶ)ら源氏一族を国司に任じるよう、朝廷に根回ししておいてほしい」との旨が書かれています。

平頼盛はかつて頼朝の命乞いをした池禅尼(いけのぜんに。清盛の継母)の子で、平家の都落ち後に不遇を託ちていたのでした。

こちらも恩人の将来がかかった大事な書状ですから、滅多な者ではなく気心の知れた鶴太郎が適任だったのでしょう。

■鶴次郎、走り継ぐ

以上で鶴太郎の出番(名前が出る場面)は終わり。その役目は鶴次郎に受け継がれた?ようです。

鶴次郎のデビューは文治元年(1185年)12月16日。京都へ使いに向かっていた黒法師丸(くろほうしまる)が鎌倉へ戻ってきて言いました。

「道中、駿河国岡部宿で相棒の浜四郎(はましろう)が急病で倒れて寝込んでしまい、起き上がることもままなりません。それで務めが果たせないので帰って来ました」

とのこと。仕方がないので頼朝は鶴次郎と生沢五郎(いくさわ ごろう)を同行させ、3人で再び京都へ向かわせたということです。


二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】


上洛の途上でへばってしまった浜四郎。その後どうなったのだろうか(イメージ)

果たして3人は12月26日に京都へ到着、明けて文治2年(1186年)1月7日に帰ってきました。

この時、何の用事で何を持って(あるいは手ぶらで)行ったのかは詳しく記されていないものの、鎌倉から京都へはだいたい10日間くらいで行けることが判ります。

同じ年の10月16日、頼朝は鶴次郎を使者として上洛させました。今回は京都にいる北条時定(ほうじょう ときさだ。北条時政の弟?従兄弟?)に「藤原範季(ふじわらの のりすえ。木工頭)が鎌倉に叛旗をひるがえした源義経(よしつね)に内通している」ことを伝えるのです。

「三日で行け!」

通常であれば10日ほどの距離を3日で行くよう急かしており、出発したのも丑の刻(午前2:00ごろ)と早朝通り越して深夜。よほどの重大事と考えていたことがわかります。

鶴次郎が実際に何日で着いたのかはともかく、京都で用事を済ませると現地に来ていた生沢五郎・御厩舎人宗重(みんまやのとねり むねしげ)らと合流して11月17日に帰って来ました。

「兵衛尉(ひょうゑのじょう。時定)殿からの書状です」

そこには生沢五郎らが献上した駿馬は無事に納められたこと、合わせて藤原範季は職を解かれたことが記されています。

■奉納相撲にも出場

とまぁこんな具合で頼朝の使い走りとして鎌倉と京都を往復することの多い鶴次郎ですが、他にはこんな出番もありました。

時は建久3年(1192年)8月14日。鶴岡八幡宮寺の放生会(ほうじょうえ)で奉納相撲が行われた時、鶴次郎は選手として出場しています。

【予選の取組表】
一番 奈良藤次(なら とうじ)×荒次郎(あらじろう)
二番 鶴次郎×藤塚目(ふじづか さかんorとうの つかめ)
三番 犬武五郎(いぬたけ ごろう)×白河黒法師(黒法師丸?)
四番 佐賀良江六(さがら えのろく)×兼仗太郎(けんじょう たろう)
五番 所司三郎(しょし さぶろう)×小熊紀太(おぐま きのた)
六番 鬼王(おにおう)×荒瀬五郎(あらせ ごろう)
七番 紀六(きのろく)×王鶴(おうづる)
八番 小中太(こちゅうた。中原光家?)×千手王(せんじゅおう)

左側が勝者、鶴次郎は藤塚目を下して本選への出場を果たしたのでした。

二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】


相撲をとる鶴次郎たち(イメージ)

それにしても、みんな本名なのか四股名なのか、鬼王とか千手王とか強そうですね。本選の結果については記録がないものの、鶴次郎の活躍を期待してしまいます。

また同じ年の9月17日、京都にいる一条能保(いちじょう よしやす。頼朝の姉妹婿)へ絹五十反と駿馬二頭を贈るため御厩舎人仲太(ちゅうた)と共に上洛。ただしこの時の結果については特に記録がありません。

鶴次郎が最後に登場するのは建久6年(1195年)2月4日。前年12月6日に相模・武蔵両国の年貢を京都へ運ぶため吉野三郎(よしの さぶろう)と共に出発、明けて1月12日にこれを納めて帰って来ました。

ちゃんと受領証も持ってきており、きちんと役目を務めあげた鶴次郎に、頼朝も安心したことでしょう。

こうして鶴次郎もまた、歴史の表舞台から姿を消したのでした。

■終わりに

以上、『吾妻鏡』から鶴太郎と鶴次郎を紹介しました。ちなみに鶴太郎という名前の者はもう一人おり、文治6年(1190年。建久元年)1月6日に出羽国で叛乱を起こした大河兼任(おおかわ かねとう)の嫡男が登場します。

しかし彼はもちろん別人であり、間もなく行方不明になってしまいました(恐らく討伐されたのでしょう)。

二人は親子?それとも…源頼朝に仕えた雑色の鶴太郎・鶴次郎を紹介【鎌倉殿の13人】


頼朝の偉業は、彼らの支えあってこそ

話を戻して、『吾妻鏡』には他にも多くの雑色や下級官人などが登場します。言わば歴史舞台のエキストラにも目を向けて見ると、より共感できて面白いです。

皆さんも、ぜひ『吾妻鏡』を読んでみて、推しキャラを見つけてほしいと思います。

※参考文献:

  • 御家人制研究会『吾妻鏡人名索引』吉川弘文館、1993年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 1頼朝の挙兵』吉川弘文館、2007年11月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 2平氏滅亡』吉川弘文館、2008年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 3幕府と朝廷』吉川弘文館、2008年6月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 4奥州合戦』吉川弘文館、2008年9月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 5征夷大将軍』吉川弘文館、2009年3月
  • 五味文彦ら編『現代語訳 吾妻鏡 6富士の巻狩』吉川弘文館、2009年6月

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