幕末期、幕府の大老だった井伊直弼(いいなおすけ)が「桜田門外の変」で暗殺されたのはご存じの通りです。
井伊直弼(Wikipediaより)
ではその後、彼が藩主を勤めていた彦根藩はどうなったのでしょう? その後の経過をたどってみます。
井伊家は歴代で5人の大老を輩出した名門です。中でも、井伊直弼は将軍徳川家定の頃に江戸幕府の大老と、彦根藩の藩主の双方を兼務しました。
直弼は日本の開国や近代化を進めるべく日米修好通商条約を半ば強引に締結したり、幕府の次期将軍を紀州藩の徳川慶福(家茂)と定めたりなど、その行動は周囲からの批判や反発を受けることが多かったようです。
しかし彼はそのような周囲の意見を聞きませんでした。それどころか反対する者を粛清する「安政の大獄」を起こしたことが決定打となり、水戸浪士や薩摩浪士によって暗殺されてしまったのです。

桜田門
■隠蔽の結果の処遇
直弼の死後、息子の井伊直憲が井伊家の跡を継ぎます。実は当時、大名が殺害されると家が取り潰されるおそれがありました。そのため彦根藩は取り潰しを回避するべく、直弼が暗殺されたことを一旦隠蔽し、病死したことにします。

井伊直憲遺髪塚(滋賀県彦根市井伊神社前・Wikipediaより)
一方その頃、幕府では次期将軍を決定する際に直弼と対立していた一橋慶喜が将軍後見職についていました。そのため彦根藩への風当たりは強く、直弼の死を隠していたことが判明すると彦根藩は10万石の減封、さらに京都守護の解任などの処分を下されてしまいます。
彦根藩は幕府の信頼を回復するべく、慶喜と同じく勤王派である岡本半介が藩政を行うようになります。
さらに直弼の側近であった長野主膳らを斬首し、幕府が要請する警備活動にも熱心に取り組みました。
その甲斐あって彦根藩は、石高を3万石まで回復させることができました。
■鳥羽・伏見の戦いで…
その後、幕府による長州征討が失敗し、一橋慶喜が徳川慶喜として第15代将軍の座に就きます。

徳川慶喜の墓
そして朝廷に政権を返す大政奉還が行われ、その流れで鳥羽・伏見の戦いが起こります。
会津藩や桑名藩など、新政府に従わない旧幕府軍は続々と京都へ向かいました。しかし、それまで幕府に大人しく従っていた彦根藩はここで裏切り、新政府軍に就きます。
実際には戦闘には至らなかったものの、彦根藩は積極的に桑名藩討伐を申し出たり、新撰組の近藤勇を捕縛したりするなど、しっかりと功績を挙げています。
この甲斐あって、彦根藩および井伊家は明治時代以降も討伐されませんでした。
そしてどうなったかというと、現在に至るまで彦根藩や井伊家は、中央大学や専修大学の創設者や彦根市長など、各界で活躍する人材を輩出し続けています。
鳥羽・伏見の戦いでの寝返りは幕府に対する「裏切り」であったものの、結果的に時局を読んだ正しい選択だったと言えるでしょう。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan