戦国時代に真田家を支えた真田忍軍は、後世で真田十勇士のモデルになるほど人気があります。
彼らが活躍したのは戦国時代の中頃から江戸時代初期にかけて。
真田氏の祖先は、平安時代に朝廷から「信濃守」として信州に赴任した滋野一族だと言われています。この滋野一族が海野・禰津・望月の三家に分かれ、そのうちの1つである海野家が、真田家のルーツです。
週刊少年ジャンプで、北条時行を主人公とした『逃げ上手の若君』という作品が連載されていますが、あの作品中にも海野・禰津・望月の三家は有能な武将の一族として登場しますね。
特に海野家は呪術や加禱喜寿に通じており、真田家も同様に呪術に通じていたとされています。
■出自は「忍者の里」
真田家の領地としていた信州上田や上州吾妻一帯の地域は、古くから山伏の修行場として知られており、修験道が盛んで、忍者集団が育ちやすい環境にありました。
中でも、特に四阿山(群馬県吾妻郡嬬恋村)は修験道の聖地といわれており、伊賀や甲賀と同様に、修験道から忍術が発展していったと考えられています。
さて戦国時代の中期頃、武田信玄が信濃へ侵攻すると、真田家の棟梁・真田幸隆は信玄の家臣となり、信濃先方衆として信濃侵攻の軍役を任されます。

真田幸隆(Wikipediaより)
幸隆は佐久郡・小県郡・北信濃の在地土豪の説得や情報収集に尽力し、その過程で禰津家を家臣に加えました。
禰津家は甲陽流忍術の家元として知られ、情報収集や攪乱工作に秀でていました。その後、真田忍軍の中核は彼らが担っていくことになります。
■真田幸隆の活躍
ところで当時、信濃攻略を進める信玄の前に立ちふさがっていたのが村上義清でした。
さらに信玄は2年後の天文19(1550)年に7千の兵を率いて義清の本拠地である砥石城(戸石城)を攻めたものの、攻略できずに大敗しています。撤退する際、村上軍の追撃を受けたのです。

しかし翌年の天文20(1551)年、真田幸隆はたった半日で、しかも一兵も失うことなく、独力で砥石城を攻略します。
このとき、彼は義清に属していた弟の矢沢頼綱を調略することによって内部から切り崩し、城を乗っ取ったのです。
この内部工作で活躍したのが、禰津信政や望月六郎らが組織した真田忍軍でした。
実は、真田幸隆や海野一族にとっても、義清は宿敵といえる存在でした。天文10(1541)年の海野平の戦いで海野一族は敗北し、領地を追われていたからです。
こうした背景もあり、彼らは義清に対して一矢報いたのでした。
真田忍軍のさらなる活躍と、その最期については後編でお話しします。
後編はこちらから
参考資料
刀剣ワールド
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan