私たちにとってなじみ深いお餅ですが、これにも歴史があります。
餅は、餅米を蒸して粘り気が出るまでついて作りますが、日本には縄文時代に稲作の技術とともに東南アジアから入ってきたとされています。
とはいえ、蒸した米殻類を杵でつく製法は日本に特有のもので、中国や朝鮮半島の餅とも異なります。
餅つき
古墳時代後期の蒸し器(土器)も見つかっており、少なくともこの時期には現在の製法と近い形で餅が作られていたと思われます。
当時は現在のような白米ではなく赤米でした。これは粘りが強く、炊くとモチモチした食感で、簡単にまとめることができます。
このような食料品を、当時の人は霊力を持つ聖なる食べ物と捉えていました。
奈良時代初期に編纂された『豊後国風土記』には次のような記述があります。稲作を行っていた人たちが余った米で大きな餅を作り、それを的にして矢で射たところ、白い鳥に姿を変えて飛んでいってしまったというのです。しかもその後、家は衰えて水田は荒れ果ててしまいました。

赤米(Wikipediaより)
当時の餅は、丸くて大きな平たいものだったと考えられています。白い餅は縁起のよい白鳥を連想させることから、粗末に扱ってはいけないと考えられていたのでしょう。
現在でも、餅という食べ物には独特の特別さがありますね。
■鏡餅から全国へ
さて平安時代には、満月のような形の平たい餅を、三種の神器のひとつである銅鏡の形に似ていることから鏡餅と呼ぶようになりました。
また、満月は望月とも呼ぶことから、鏡餅を拝むと望みをかなえられると信じられていたようです。そのため、正月にやってくる年神様に福と徳を重ねがさねよろしく頂くという意味を込めて、二段重ねで床の間に供えるようになったのです。
鏡餅の形については、人の魂がこもる心臓を模したという説や、人間関係が円満であることを表しているという説もあります。

鏡餅
そして、鏡餅は神への供物として朝廷でも推奨され、正月などのハレの日の行事に欠かせない縁起物として扱われる習慣が広がっていきました。
こうして、近畿圏では鏡餅が正月行事で用いられるようになり、後に東国各地へと広がっていきますが、餅の文化は東西でそれぞれ異なる歴史を歩んでいくことになります。
雑煮に使われる餅の形は東の角餅、西の丸餅といわれ、東日本ではのし餅を切った四角い角餅を、西日本では丸い小餅を食べることが多いです。
雑煮の発祥の地である京都では、餅をついて一つ一つ手で丸めて作る丸餅が主流です。

丸餅
これは、神聖な食べ物である餅を刃物で切るのはタブーなので、切らなくとも食べやすいように丸い小餅にされたと言われています。
こうして、京都の食文化の影響が大きい西日本では、雑煮に丸餅を使います。
ちなみに、固くなった鏡餅を槌などで「開く(たたき割る)」習慣が定着したのも、やはり刃物で切るのがタブーだったからです。
■文化圏と地域色
一方、東日本で角餅が広まったのは、のし餅を切って作る角餅が江戸で考案されたのがきかっけです。その経緯にはいくつかの説があります。

角餅
ひとつは、将軍のお膝元である江戸で敵をのすという意味でのし餅が使われるようになったという説。
他にも、人口の多い江戸では、竈(かまど)が一つしかない長屋住まいの人も多く、餅をついて丸める余裕がなかったため、手早く大量に作れる製法が広まったという説。
さらに、角餅は隙間なく詰めて保存・運搬できるので使いやすかったとも言われています。
角餅と丸餅の文化圏は、岐阜県の関ケ原周辺を境目としてちょうど東西に分けられるとされています。
が、山形県の庄内地方や岩手県の一部では、船による京都との往来があったため、東日本でも丸餅が主流です。
また逆に、江戸出身の藩主が長く藩主を務めた高知県や鹿児島県では角餅が使われることが多く、各地で地域色が見られます。
参考資料
- お餅はいつから日本にあった?お餅の歴史 – 【公式】まごころ弁当
- お餅大解剖【お餅の歴史】|100%お餅ミュージアム|全国餅工業協同組合
- 餅の歴史 – 歴史まとめ.net
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan