あの織田信長が寵愛した女性の一人に生駒吉乃がいます。彼女は信長の側室でありながら正室と同等に扱われていました。
彼女は1528(享禄元)年、尾張国丹羽郡小折(愛知県江南市)の土豪・生駒家の長女として誕生しました。
生駒家には生駒類という名が伝わっており、こちらが正式名だという説もありますが、ここでは一般的に知られている生駒吉乃という名で話を進めたいと思います。
吉乃は最初、美濃国(岐阜県南部)の豪族・土田弥平次の元へ嫁ぎますが、1556(弘治2)年、弥平次は明智城(岐阜県可児市)の戦いで討死します。そのため、彼女は実家の生駒家に戻りました。
当時の生駒家は犬山城主・織田信清に属しつつ、灰や油の商いと馬借で冨を築き、武家商人として飛騨国から三河国まで広範囲で商いをしていました。
その屋敷には諸国から商人・浪人・旅芸人などが出入りし、多くの情報が集まっていました。
■信長の寵愛を受ける

織田信長
情報収集を何よりも重視していた織田信長は、生駒氏の財力と情報力に目をつけます。彼は諸国の情報を得るべく何度も足を運んでいました。
そんな中で出会ったのが、後家となっていた吉乃でした。一目惚れした信長は足繁く生駒屋敷を訪れ、やがて側室として彼女を迎え入れることにします。当初は非公式の愛妾という立場だったようです。
吉乃は優しい女性で、戦続きで気の休まる暇もない信長にとって安らげる存在だったらいしく、彼女がいると機嫌が良かったといいます。
信長は生母に疎まれてて育った経験があるので、吉乃の母性が新鮮だったのかも知れません。
信長は、正室の濃姫に隠れて吉乃との密会を繰り返します。清洲城から生駒屋敷までの約10kmの距離を、馬を飛ばして赴いていました。

織田信長像・濃姫像
■3人の子を授かり…
そして1557(弘治3)年に信忠、翌1558年(永禄元)年に信雄、さらにその翌年1559(永禄2)年に長女の徳姫と、立て続けに3人の子を授かります。

織田信忠(Wikipediaより)
信長と正室・濃姫の間には子どもがいなかったため、信忠は養子として迎えられ、のちに織田家の家督を継ぐことになります。
また、信雄は北畠家の養子となり、徳姫は徳川家の嫡男・松平信康に嫁ぎました。
このように吉乃は3人の子に恵まれましたが、徳姫を出産した頃から病床に伏すことが多くなります。しかし、信長に心配をかけまいと秘密にしていたため、信長は気付かなかったようです。
(後編に続く)
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