法皇猊下の御万歳(ごばんぜい。崩御)以来、政治の表舞台から姿を消した彼女は、どのような生涯を送ったのでしょうか。
今回は改めて丹後局こと高階栄子(たかしな えいし/よしこ)の生涯をたどってみたいと思います。
■唇一つで「大天狗」後白河法皇さえ思いのままに
高階栄子の出自については謎が多く、父親は法印澄雲(ほういん ちょううん)か上座章尋(じょうざ しょうじん)ではないかとする説が有力です。
母は平政子(たいらの まさこ。若狭局)の可能性が濃厚。政子は平正盛(まさもり。平清盛の祖父)の娘なので、栄子は平清盛(演:松平健)のいとこおばに当たります。
後白河法皇の側近・平業房(なりふさ)に嫁ぎ、金毘羅丸(こんぴらまる。後の山科教成)たちを生むなど順調な人生でした。
後白河法皇御影。藤原為信筆
しかし治承3年(1179年)11月の政変により後白河法皇が清盛に幽閉されると、業房は官職を解かれた上に伊豆国へ流罪にされてしまいます。
「こんなところで朽ち果ててたまるか!」
護送中に逃亡した業房。しかし間もなく捕まってしまい、平宗盛(演:小泉孝太郎)に拷問を受けた末に殺されました。
ここで遺された妻としては、普通なら夫の菩提を弔うべく出家するところ。しかしこのまま終わってなるものかと栄子は幽閉中の後白河法皇に接近します。
失意の法皇にとって彼女の存在は何よりありがたく、おまけに生来の美女とあれば寵愛するのは当然とも言えるでしょう。
冬来たりなば、春遠からじ……やがて養和元年(1181年)閏2月に清盛が亡くなり、後白河法皇は次第に復権を果たします。
同年10月に覲子内親王(きんしないしんのう。宣陽門院)を生んだ栄子はますます寵愛され、政治にも介入するようになりました。
この様子を九条兼実(演:田中直樹)は日記『玉葉』で「……朝務は偏にかの唇吻にあり……(意:朝廷のまつりごとは、ただ彼女の唇≒口添えによって決められている)」と皮肉っぽく書いています。
宮中の公卿たちも栄子を楊貴妃(ようきひ。大陸唐代における傾国の美女)になぞらえ、彼女には羨望と嫉妬の眼差しが注がれたことでしょう。

高久靄厓「楊貴妃図」
寿永2年(1183年)に平家が安徳天皇(演:相澤智咲)を連れて都落ちしてしまったので、代わりの帝を立てようとした時、後鳥羽天皇(演:尾上凛→尾上松也)を推したのが栄子と言われます。
その後も出世した栄子は文治3年(1187年)に従三位、建久2年(1191年)に従二位まで昇りました。しかし建久3年(1192年)に後白河法皇が崩御すると彼女も出家。
しかし娘の宣陽門院と共になおも政治介入を続け、源頼朝(演:大泉洋)と連携する九条兼実を追い落とすべく、土御門通親(演:関智一)と組みました。
果たして兼実を失脚(建久七年の政変)せしめた栄子ですが、建仁2年(1202年)に相方の通親が薨去。加えて成長した後鳥羽上皇が院政を本格化すると、彼女らは政権から疎外されていきます。
かつて推した後鳥羽上皇によって引導を渡されてしまった栄子。さすが(彼の優秀さを見抜いた)慧眼と言うべきなのでしょうか。
やがて宮中を去った栄子は亡夫・平業房の遺領である浄土寺に移住。人々からは浄土寺二位(じょうどじのにい)などと呼ばれ、建保4年(1216年)に亡くなったのでした(諸説あり)。
■終わりに
以上、丹後局こと高階栄子の生涯を駆け足でたどってきました。

晩年の丹後局(イメージ)
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」第42回放送時点(建保2・1214年~建保5・1217年)では最晩年の登場になります。
果たして彼女は政子にどんな言葉を伝えるのか……そして政子がどう太刀打ちするのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 円地文子 監修『人物日本の女性史5 政権を動かした女たち』集英社、1977年7月
- 古代学協会 編『後白河院 動乱期の天皇』吉川弘文館、1993年2月
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