慶長8年(1603)に征夷大将軍となって江戸幕府を開き、太平の世を築いた天下人・徳川家康。

彼は、人質時代から多くの家臣に支えられていました。
中でも、酒井忠次・榊原康政・本多忠勝・井伊直政の4人は『徳川四天王』と呼ばれ、重宝されました。

ただ、彼らがどのような活躍で家康に貢献したか、あまり詳しく知らない方もいるのではないでしょうか。

そこで今回は、徳川四天王の活躍をまとめてご紹介します。

■徳川家のバランサー・酒井忠次

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酒井忠次/Wikipediaより

1人目は徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣・酒井忠次です。

忠次は家康の人質時代から支えました。この時の忠次の年齢は23歳。当時6歳だった家康とは17歳も差がありました。

そんな忠次は、機転の良さで家康の期待に応えていました。それが活かされたのは、元亀4年(1573)の正月のころ。

武田家から「松枯れて竹たぐひなき明日かな」という内容の句が送られました。意味は、「松平が衰退し、武田が栄える将来だ」というもの。

この内容に家康や家臣は怒りを見せますが、忠次はこの句の濁点を変えて、「松枯れで竹だくびなき明日かな」(松平は衰退せず、武田の首がなくなる将来だ)と詠みます。


忠次の機転に家康たちは大喜び。以後、正月には門松の竹を斜めに切り落としたゲン担ぎの門松を置くことが習慣となりました。

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徳川家康/Wikipediaより

また、忠次は徳川家中の人間関係の調整も行っていました。

武田家滅亡後、忠次は家康が徳川四天王の井伊直政に武田家遺臣を家臣につけることを賛成します。しかし、同じく四天王の榊原康政は大反対。悪態をつきながら、激怒していました。

この様子に忠次は「主君の意見に反対するのか?今後そのような態度を取るならば、一族串刺しにするぞ」と叱りつけました。忠次の言葉に康政は、何も言えなくなったそうです。

まさに忠次は、徳川家に無くてはならない存在でした。そして家康を支え、家臣をまとめた忠次は慶長元年(1596)に病没。70歳で生涯を終えました。

■文武両道の士・榊原康政

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榊原康政/Wikipediaより

2人目は、徳川三傑に数えらえた榊原康政です。


康政は、13歳の頃から家康に仕え、初陣は永禄6年(1563)の三河一向一揆でした。この戦いでの武功から、家康から「康」の字を貰っています。康政は部隊の指揮官としての能力は本多忠勝に勝り、井伊直政に匹敵するとの評価を受けています。

加えて、康政は直政と親友関係で、「家康の心中を知っているのは私と直政だ」と言うほどの深い交流を重ねていました。

また、康政は幼少の頃より勉学を好み、書を読んでいたこともあり、字が非常に上手でした。そのため、小牧・長久手の戦いの前年に豊臣秀吉を非難し、徳川方に味方するように促す文を多くの武将たちに配布。

やがて、字の上手さと内容を知った秀吉は怒りを露わにし、康政に10万石の懸賞金がかけられるほどでした。

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小牧・長久手の戦いでの康政/Wikipediaより

そんな康政ですが、言いたいことを言ってしまう性格で、主君である家康にも物申すことがありました。

それは関ヶ原の戦い後のこと。

家康は、秀忠が遅刻したことで関ヶ原の戦い本戦に間に合わなかったことを理由に、秀忠と距離を取っていました。

そのことで康政は家康に、「関ヶ原に向ってくるようにとの命令を受けた使者が、悪天候のために遅れてきました。加えて、命令を受けて関ヶ原に向かったとしても、悪天候が災いし遅刻することは当たり前だったはずです。」と伝えました。


康政の言葉を受け、家康は秀忠に対面を許可。この働きに秀忠は大変感謝したそうです。

■立花宗茂と並び立った天下無双の大将・本多忠勝

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本多忠勝/Wikipediaより

3人目は、生涯参加した57回の合戦で一度も傷を負わなかった本多忠勝です。

忠勝といえば、「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」の狂歌が思い出されるかと思います。

これは、元亀3年(1573)の一言坂の戦いで、忠勝が殿(しんがり)として徳川軍の退却に貢献。その活躍を見た武田家臣の小杉左近が称賛する形で、狂歌として残しました。

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織田信長/Wikipediaより

その武勇は、織田信長からは「花も実も兼ね備えた武将」と豊臣秀吉からは「日本第一、古今独歩の勇士」と称賛されました。

また、秀吉から武勇を見込まれ、スカウトを受けますが、「秀吉様の恩は深いですが、家康様と歩んだ月日には及ばない」と言い、断りました。

そのようなことから忠勝は、武勇だけでなく、忠義心にも厚いことがうかがえます。忠勝のような家臣を持った家康は、さぞ果報者だったことでしょう。

■井伊の赤鬼・井伊直政

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井伊直政/Wikipediaより

最後に紹介するのは徳川四天王最年少の井伊直政です。

直政は他の3人と違い、家康の家臣になったのは天正3年(1575)と、非常に遅いものでした。
そんな身でありながら、直政が徳川家の重臣になれたのは、天正10年(1582)の天正壬午の乱での後北条家との講和交渉がきっかけでした。

交渉により、旧武田領である信濃国と甲斐国を取得すると、直政は家康から旗本先手役の侍大将に任命されます。その際に旧武田家臣たちも直政の軍に加わることに。

この時、直政は武具全てを赤に統一した山県昌景の武田の赤備えにならい、井伊の赤備えとして継承しました。

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武田四天王だった山県昌景/Wikipediaより

また、直政の性格は冷静沈着で寡黙であり、自他共に厳しい性格。そのため、家臣の些細な失敗も許さず斬り捨てることが多く、自身の官位である兵部少輔にかけて「人斬り兵部」と呼ばれる所以になりました。

そんな直政でも正室の唐梅院には頭が上がらず、恐妻家だったそうです。厳格な性格の直政がたじたじになっている様子を想像すると、人間味がありますね。

■最後に

今回は徳川四天王をご紹介しました。4人の活躍を見るに、家康は相当家臣に恵まれていたと考えられます。家康も自身の宝は家臣たちと言うくらいなので、家臣たちも良き主君に恵まれていたと考えられますね。

どうする家康では、徳川四天王はどのような活躍を見せてくれるか楽しみですね。


※参考文献:房野史典『時空を超えて面白い!戦国武将の超絶カッコいい話』三笠書房、2018年

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