戦国時代の「三大奇襲作戦」と呼ばれている戦闘があります。このうち二つは有名な桶狭間の戦いと毛利元就による厳島の戦いですが、三つめが北条氏康による河越夜戦(かわごえよいくさ/やせん)です。
しかしこの河越夜戦は一般にはあまり知られておらず、よほどの歴史好きでないと名称も聞いたことがないでしょう。一体これはどんな戦いだったのか、後世まで伝わっているその内容を紐解きます。
北条早雲が亡くなった後、その跡を継いだのが北条氏綱で、彼はもともとは伊勢氏綱という名前でした。そこで彼は1523年に伊勢から北条へと改称します。
北条氏綱(Wikipediaより)
改称のはっきりした理由は不明ですが、関東圏を支配する上で、旧鎌倉幕府の執権職である北条姓の方が武士たちを従えやすかったからではないかと言われています。
さらに彼は領地を拡大して房総半島まで勢力を伸ばし、関東支配を進めていきます。そうした中、1541年に氏綱が没してから、さらにその跡を継いだのが当時27歳で三代目にあたる北条氏康でした。
■北条氏康最大のピンチ
北条氏康は学問的な才にも長け、税制改革などを行ったほか、戦にあたっては非常に慎重に事を進める性格だったと言われています。その彼が、北条氏による関東支配を決定づけることになったのが、1546年の河越夜戦です。

北条氏康(Wikipediaより)
話は1545年8月、今川義元が、東駿河を奪還するべく北条領へ攻め入ってきたところから始まります。
これを受けて氏康は東駿河に出兵しましたが、今度は背後の武蔵の河越城を山内・扇谷の上杉氏の大軍によって包囲されてしまいます。
河越城はこの頃、まだ北条氏が獲得したばかりの拠点でした。
こうして、氏康は挟み撃ちにされてしまったのでした。そこで彼は今川に対して、とりあえず東駿河の富士川よりも東の地位意を明け渡すことを確約して和睦しました。
こっちが片付いたので、次は河越城の救援に向かいます。【後編】では、伝説の合戦によって城が奪還されるまでの流れを解説します。
参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan