対照的な二人とされることが多いですが、実は二人三脚で協力していた時期がありました。
今回の記事では、そんな足利直義に迫ってみたいと思います。
伝源頼朝像(足利直義像という説あり)出典:Wikipediaより
歴史の通説で「源頼朝の肖像」と言われていたあの肖像の主は本当は誰なのか?

■足利直義とは?
足利直義は、鎌倉時代末期から南北朝時代初期にかけて活躍した人物です。鎌倉幕府の有力御家人であった足利貞氏の三男として徳治元年(1306年)に生まれました。
1歳上の兄・足利尊氏(このころは「高氏」。この記事では、わかりやすさの観点から「尊氏」表記としています)とは同腹であり、仲も良かったと言われています。
■兄の足利尊氏と協力して鎌倉幕府を倒す
別腹長男である高義の早世により尊氏が嫡男となり家督を継いだころ、各地では騒乱が相次いでいました。それに対して大した策のとれない鎌倉幕府の威信は下がるばかりでした。
尊氏に従い北条氏から離反すると、足利直義は兄や後醍醐天皇とともに鎌倉幕府を滅ぼします。
■二人三脚の協力体制
後醍醐天皇から多くの守護国と地頭職を賜りましたが、次第に後醍醐天皇は力を持ちすぎた足利尊氏を失脚させたいと考えていました。それに気付いた足利直義は挙兵。見事足利の勝利に終わります。
兄の尊氏は武闘派として、武士への恩賞給与など、武家の棟梁として最小限のことを行っていました。それに対して政治面では弟の直義が内政を取り仕切りました。
お互いの個性を活かしながら、二人三脚で協力していた兄弟。しかし、ここでとある人物がきっかけで対立関係へと発展していきます。
■高師直とは?
高師直(こうのもろなお)という、足利尊氏の秘書代表のような「執事」という立場にいた人物がいます。後醍醐天皇との戦い以来、尊氏はどうも政治意欲を失っていたようで、それを助けたのが高師直でした。
政策などをめぐり、高と直義に対立関係が発生。高のもとには新興武士が、直義のもとには鎌倉以来の有力御家人などが集まりました。そして、高と直義とのあいだで観応の擾乱が発生。最終的に、薩埵峠(さったとうげ)の戦いで実兄の尊氏に敗れました。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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