■甲相駿三国同盟

戦国時代、甲斐国の武田信玄と相模の北条氏康、それに駿河の今川義元の三氏が結んだ、通称「甲相駿(こうそうすん)三国同盟」がありました。なぜこのような同盟が結ばれたのか、その効果はどのようなものだったのかを検証してみましょう。


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甲府駅前の武田信玄像

16世紀半ばの上記三者は、それぞれ領国内を統一へと導いた大変大きな存在でした。しかし戦国時代の常で、彼らはそれぞれ難敵と睨み合っていました。このことが、日本史上でも珍しい三国同盟を生み出す原因になったのです。

もともと、武田・今川の両者は最初から良好な関係にありました。1536年には今川義元の仲介で、公家である三条公頼の娘・三条の方が武田信玄の継室に嫁いでいますし、翌年の1537年には信玄の姉である定恵院殿が今川義元に嫁いでいます。

日本史上稀な「甲相駿三国同盟」はなぜ結ばれた?三人の名将たちのそれぞれの思惑とは


桶狭間古戦場公園の今川義元像

さらに武田信玄にとっては、信濃へ本格的に侵攻するためには、自分の背後に控えている北条氏と同盟を結んでおく必要があったのです。

北条は、今川とは最初から密接な関係でした。北条早雲の姉妹である北川殿は今川義忠(義元の祖父)に嫁いでいますし、その子である今川氏親の娘(瑞渓院殿)は北条氏康に嫁いで氏政を産んでいます。

ただその後、両氏は国境に関するゴタゴタが原因で、一時的ではありますが関係が悪化していました。



■政略結婚はフォークダンスのように

とはいえ、今川家は、尾張の織田家とも争っていたため、北条と本格的に対立すると東西を敵に挟まれることになってしまいます。そこで北条との関係修復を模索した結果、改めて武田・北条・今川による政略結婚が行われることになったのです。

まず、1552年から1554年にかけて、今川義元の娘である嶺松院殿が、武田信玄の子である武田義信に嫁ぎました。
その次に、北条氏康の娘である早川殿が、今川義元の子である今川氏真へ。さらに信玄の娘である黄梅院殿が、北条氏康の子である氏政に嫁ぎました。

男性と女性がぐるぐる回っており、まるでフォークダンスです。

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「北条氏康印判状」を所蔵している道場寺(東京都練馬区)

こうして三国同盟は成立し、そのおかげで武田信玄は川中島の戦いに集中することが可能になりました。また北条氏康は関東各地の大名との争いに、さらに今川義元は織田に対して、それぞれ注力することができたのです。

ちなみにこの三者、同盟を結ぶにあたって直に顔を合わせたかのようなイメージがありますが、それを示す証拠はありません。

『相州兵乱記』では、駿河の善徳寺で三人が顔を合わせたと書かれていますが、もともとこの書籍自体が後世に編纂された軍記ものなので、それが実際のことだったのかは不明です。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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