戦国時代の謎のひとつに、織田信長の義弟である浅井長政は、なぜ信長を裏切ったのか? というのがあります。
この裏切りによって、信長が「金ヶ崎の退き口」へと至り、のちの豊臣秀吉が大出世するほどの功績を挙げたことを考えると、無視できない歴史的事件だと言えるでしょう。
まずは、長政が裏切るまでの経緯を見ていきましょう。
桶狭間古戦場公園の織田信長像
1570年の正月、足利義昭を将軍に据えて強力な後ろ盾を得た織田信長は、義昭に対して有名な21カ条の掟書を提示します。
その内容は、例えば文書を出す際は必ず信長に内容を知らせるべし、信長は将軍の承諾抜きで逆らう者を成敗できる……など、義昭よりも信長の方が格上であることを示すものでした。
この掟書の提示とあわせて、信長は畿内の大名たちに、上洛して天皇と将軍へ礼参するようにとお触れを出しました。
しかし、これに拒否した大名がいました。越前の朝倉義景で、彼のことを信長は、幕府の命令に背く反逆者と見なして討伐を決定します。
■朝倉・浅井の挟撃
もともと、朝倉氏というのは将軍家と深い縁がありました。都からも多くの公家が移り住んだ、朝倉氏の本拠地である一乗谷は北の京と呼ばれるほど繁栄していたのです。

一乗谷・朝倉氏遺跡
こうした中で、当主の朝倉義景は何不自由なく育った身分なのもあってプライドが高く、信長を見下していました。
京から朝倉討伐のために出陣した信長は、そんな朝倉の支城を次々に攻め落としていき、一乗谷に迫ります。そして軍勢を越前金ヶ崎城へ集めたところで、同盟者の一人である浅井長政が裏切った、という報せが届いたのです。
浅井が背後から迫り、正面からは朝倉がおり、前後を挟まれる形で織田軍はたちまち窮地に陥ったのでした。
浅井長政は、信長の妹であるお市の夫です。もともと長政は義兄である信長をとても慕っており、また信長も、かつて長政の強力なライバルだった六角氏を攻める際に協力していたほどです。

浅井長政とお市の銅像
よって信長は、この裏切りの報せをすぐには信じることができませんでした。
【後編】では、浅井長政が信長を裏切った理由についての諸説や、その後の歴史の流れを解説します。
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参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan