明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【前編】
明治の毒婦と呼ばれて…死んでもなお人生や遺体を辱められた薄幸の女性「高橋お伝」【後編】
しかし、今回の記事で取り上げる「原田きぬ」もとある事件を起こし、梟首(さらし首)に。そして、彼女の事件は「夜嵐おきぬ」という名前でのちに作品にもなっています。

夜嵐阿衣花廻仇夢(野田市立図書館 所蔵)
■16歳で芸者に、大変な美貌の持ち主だった
きぬが16歳のとき、父と母が相次いで亡くなります。その後は芸者となりますが、持前の大変な美貌で人気に。何人もの歌舞伎役者と関係があったと言われています。その後、通い詰めた小林金平に見初められ、身請けされます。こうしてきぬは、小林の妾となりました。
■美しい歌舞伎役者と密会
きぬは、大坂の美しい歌舞伎役者・嵐璃鶴(りかく)と密会します。彼は後世の記述で、すらっと背が高く、やせ型で品位のある風采だった、と言われています。やがて2人は将来を約束しあう仲に。そこで邪魔者となったのが小林金平でした。
■明治4年、事件発生
嵐璃鶴と相思相愛だったきぬ。明治4年には、主人である小林金平を毒殺してしまいます。
金平が亡くなったあとは、菩提寺である上野の壽昌院に「夫が亡くなり、16日に野辺送りをする」と伝えています。
また、小林家のきぬの後見役の人物が家に来たときには、遺体に不審な点があるとしてきぬに尋ねていますが、きぬは知らん顔。「最初から熱が激しかったためだ」と、取ってつけたような嘘をついたと言います。しかし、半年後、きぬは逮捕されます。

夜嵐阿衣花廻仇夢(野田市立図書館 所蔵)
■事件のあと、2人に何が起こったか
事件のあと、原田きぬは東京浅草で梟首(さらし首)を言い渡され、3日間に渡ってさらされました。きぬの起こした事件は「夜嵐おきぬ」という名前で作品にもなりました。この「夜嵐」の異名は、きぬが処刑のときに詠んだと言われる辞世の句「夜嵐のさめて跡なし花の夢」に由来するそうです。
一方、きぬと関係を持った嵐璃鶴も不義密通の罪で3年の徒刑に処されています。釈放された後は市川権十郎(いちかわごんじゅうろう)と改名し歌舞伎役者を続けたと言われています。
いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも日本文化や歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。
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