武田の代名詞となった精鋭部隊「赤備(あかぞなえ)」を率いて数々の武勲を重ねる雄姿は、敵味方を問わず武士たちの憧れでした。
歌川国芳「甲越勇將傳武田家廾四將 山縣三郎兵衛昌景」
「我らが神の君」こと徳川家康(演:松本潤)もそんな一人だったらしく、今回はこんなエピソードを紹介したいと思います。
■兎缺は生まれ変わりの証し
……甲州士の内にも山縣三郎兵衛昌景が武略忠節は。わきて御心にかなひけるにや。一年本多百助信俊が男子設けしに。兎缺なればとて心に應ぜぬよし聞しめし。そはいとめでたきことなり。信玄が内の山縣は大なる兎缺なり。かの魂精の抜出て 當家譜第の本多が子に生まれ来りしなるべし。大切に養育すべしと仰つけられ。其子の幼名をも本多山縣とめされ。 台徳院殿の御伽にめし加へらる。「おう百助(ひゃくすけ、本多信俊)。そなた男児が生まれたそうじゃな、おめでとう」……
※『東照宮御実紀附録』巻三「家康感山縣昌景」
「え……あ、はい。ありがとうございます」
「何じゃ、せっかく跡継ぎが生まれたのに、浮かぬ顔はどうした事じゃ」
「それが、実は……」
聞けばその男児は兎缺(みつくち。兎唇)とのこと。

上唇が接合しておらず、鼻孔と口腔がつながった状態(イメージ)
上唇の接合が未熟で兎のように裂け、それが三つの口に見えるから三ツ口と呼ばれたのでした。
現代なら施術すれば簡単に治りますが、外科手術の未発達な当時であれば、こうした子供は神仏の祟りなど不吉と信じられたのです。
「……それで浮かぬ顔をしておったのか」
「はい。日ごろ品行方正を心がけてはおったのですが、何の因果であのような子が……」
しょげ返る信俊を、家康は明るく励ましました。
「何を申すか。これは吉兆ぞ。武田の名将・山県三郎兵衛(昌景)は兎缺だったではないか。その子はきっと、長篠で討死した奴の魂が生まれ変わったに違いない」
家康はその子に本多山縣(やまがた)という名前を授けました。
やがて成長した本多山縣は元服して本多信勝(のぶかつ)と改名。家康の嫡男・徳川秀忠(ひでただ、台徳院)の小姓として重用されたのでした。
■家康の武田家リスペクト

井伊の赤備。「関ヶ原合戦図屏風」より
後年石川数正が京都へ立去し後。 當家の御軍法を皆甲州流に改かへられし時。山縣が侍どもを御前にめし。こたび汝等をもて井伊直政に附属せしむ。前々の如く一隊赤備にして御先手を命ぜらるれば。若年の直政を山縣におとらざらん様にもり立べし仰付られぬ。これらをもても山縣をば厚く御感賞ましましける事はかりしるべきにぞ。(落穂集。その後も武田旧臣を召し抱えて精鋭部隊「赤備」を復活させ、井伊直政(演:板垣李光人)に率いさせたのは有名ですね。)……
※『東照宮御実紀附録』巻三「家康感山縣昌景」
兵法を甲州流(武田流)に一新するなど武田家をリスペクトしていた徳川家康。
武田家滅亡後も脈々と息づいた甲州武士の誇りと精強さが、彼に天下を取らせた一因と言えます。
NHK大河ドラマ「どうする家康」でも、その片鱗がそこかしこに感じられることでしょう。
これからも楽しみですね!
※参考文献:
- 『徳川実紀 第壹編』国立国会図書館デジタルコレクション
- 煎本増夫『徳川家康家臣団の事典』東京堂出版、2015年1月
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