戦いの結果は徳川軍の敗北。多くの家臣を失ってしまいますが、一体誰が戦死したのでしょうか。
そこで今回は、「三方ヶ原の戦い」で命を懸けて家康を守った忠臣たちの最後を紹介します。
■家康の影武者となった夏目広次
兜を脱ぎ捨てながらも、身を挺して家康を守る夏目広次/Wikipediaより
夏目広次は徳川氏の譜代家臣・夏目氏の出身で、三河一向一揆では家康と敵対しました。『どうする家康』では甲本雅裕さんが演じ、何度も名前を間違えられるシーンが印象的ですね。
そんな広次は、三方ヶ原の戦いでは浜松城を守っていました。櫓から徳川軍の状況を知ると、家康に撤退を持ちかけます。しかし、家康が武田軍目掛けて突撃を決行していたので、馬を強制的に方向転換させまました。
そして、自らを家康と名乗り、十文字の槍と25人の騎兵を率いて、武田軍と戦いました。広次は奮戦するも、討ち取られました。
■殿として最後まで戦った本多忠真

本多忠真の甥・本多忠勝/Wikipediaより
本多忠真(演:波岡一喜さん)は本多忠勝の叔父として知られ、幼少期に父を失った忠勝に読み書きから武士の心得などを教えました。忠勝の初陣後は補佐役として、窮地に陥った忠勝を救う活躍をみせました。
そんな忠真は、三方ヶ原の戦いで徳川軍撤退時に殿(しんがり:囮役)を引き受けます。
旗を左右に突き刺し、「ここから後ろへは退かぬ」と言った後、武田軍と戦闘。武田軍を引き付けるも、ついには討ち死にしました。
■馬場信春の突撃を防ごうと戦った成瀬正義

馬場信春/Wikipediaより
成瀬正義(なるせ-まさよし)は使番・旗奉行として家康に仕えました。しかし、永禄5年(1562)に同僚を斬りつけたことで出奔。
翌年の三河一向一揆で帰参を許され、その後は織田氏の援軍としての六角氏の箕作城攻めや姉川の戦いに参加し、戦功を挙げました。
そんな正義は三方ヶ原の戦いで徳川本陣の守りについていました。しかし、馬場信春が突撃を決行することを知ると、成瀬家のことの弟・成瀬正一に託し、戦いに臨みます。
正義は家康の身代わりとなり、討ち死にしました。ちなみに、正義が討ち死にした場所は成瀬谷として知られています。
また、正義と共に討ち死にすることを約束した鳥居信元も、敵中に入った末に討ち死にしました。
■土屋昌続と一騎打ちをした鳥居忠広

鳥居忠広(中央)/Wikipediaより
鳥居忠広は鳥居忠吉の4男として生まれました。
また、三方ヶ原の戦いでは武田軍との兵力差から籠城を主張。そのことで成瀬正義から腰抜けと呼ばれ、喧嘩になりました。後ほど正義とは仲直りしています。
籠城ではなく夜戦を選択したことで徳川軍が敗北すると、忠広は殿を引き受けます。
そして、武田二十四将の1人・土屋昌続(つちや-まさつぐ)との一騎打ちで討ち取られました。
■他の戦死者たち

加藤景継の従兄弟・加藤喜助(中央)/Wikipediaより
三方ヶ原の戦いでの戦死者は、紹介した4人の他にまだおり、一覧で紹介します。
・田中義綱(たなか-よしつな)
・岡田元保(おかだ-もとやす)
・加藤景継(かとう-かげつぐ)
・外山正成(とやま-まさなり)
・大河内善兵衛(おおこうち-ぜんべえ)
・安藤基能(あんどう-もとよし)
また、三方ヶ原の戦いの前哨戦に当たる二俣城の戦いで敗北を招いた中根正照と青木貞治は、敗北の恥を雪ごうとして奮戦した後、討ち死にしています。特に正照は二俣城の城主を命じられていたので、敗北の責任を重く受けていたことが容易に想像できます。
■最後に
三河一向一揆と違い、三方ヶ原の戦いでは多くの家臣を失ったことがわかります。敗北した上に夏目広次や本多忠真といった有力な家臣を失った悲しみと悔しさは、相当なものだったと思います。
『どうする家康』では三方ヶ原の戦いをどのように展開させていくのか関心が深まりますね。
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