鬼柴田 甕割り柴田 知恵柴田
みんな一人の 柴田勝家……拙。

織田信長(おだ のぶなが)の覇業を支え、その死後も織田家に忠義を貫いた猛将・柴田勝家(しばた かついえ)。
NHK大河ドラマ「どうする家康」では、吉原光夫が好演しています。

さて、柴田勝家と言えば猪突猛進タイプの荒武者をイメージする方が多いでしょう。信長の死後、羽柴秀吉(はしば ひでよし)との駆け引きに後れをとり、滅ぼされてしまったこともその一因です。

しかし勝家には意外な一面もあったようで、つけられたあだ名にそれを垣間見ることができます。果たしてどんなあだ名だったのでしょうか。

■鬼柴田(おにしばた)

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『国史画帖 大和櫻』より、大丈夫鬼柴田(だいじょうふ、は「大いなる男」の意)

これはイメージ通りですね。時は天文21年(1552年)8月16日、信長が尾張守護代の清洲織田家と争った萱津の合戦において、勝家が敵兵30騎を討ち取った武勲に基づくと言われています。

まさに鬼神のごとき活躍ぶりは、敵にとっては恐ろしく、味方にとっては頼もしかったことでしょう。

また、似たようなあだ名に「かかれ柴田」も伝わります。これは勝家が「かかれ!」と号令をかけると将兵が奮い立ち、多くの敵を突破したことに由来するとか。

あるいは、敵以上に勝家の方が恐ろしかったのかも知れませんね。



■甕割り柴田(かめわりしばた)

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時は元亀元年(1570年)、勝家が長光寺城(滋賀県近江八幡市)を守備していたところを、六角承禎(ろっかく じょうてい。六角義賢)に包囲されてしまいます。

勝家は将兵を叱咤してよく守り抜いていたものの、援軍はなかなか来てくれません。その内に兵粮も水も底を尽きかけていました。

鬼柴田・甕割り柴田・知恵柴田…織田信長に仕えた猛将・柴田勝家のあだ名を紹介!【どうする家康】


「者ども、すべて叩き割れ!」決死の覚悟で勝負に臨む(イメージ)

このままでは飢えと渇きで全滅してしまう。覚悟を決めた勝家は、水を蓄えておいた甕をすべて叩き割って全軍に出撃を命じます。

もう後がないと覚悟した将兵らは死に物狂いで敵を撃破し、九死に一生を得たのでした。

そこで勝家は「甕割り柴田」と呼ばれ、長光寺城の山も甕割山と呼ばれるようになったのでした。

■知恵柴田(ちえしばた)

鬼柴田・甕割り柴田・知恵柴田…織田信長に仕えた猛将・柴田勝家のあだ名を紹介!【どうする家康】


喜多川歌麿「柴田修理進勝家」

時は天正3年(1575年)、越前国で勃発した一向一揆を一年ほどで鎮圧した柴田勝家。再び農民らが武装蜂起しないよう、刀狩りを実行しました。

しかし、いまだ反抗心の消えぬ領民たちは納得しません。そこで勝家は提案します。


「これより九頭竜川に舟橋をかける。その鎖として使うから、鉄として刀を供出してくれ」

九頭竜川は流れが荒く、しばしば人馬が流されていました。それが安全に渡れるようになるなら大歓迎です。

こうして越前の領民は喜んで刀を差し出し、暮らしを安んじた勝家の知恵は長く讃えられたのでした。

■終わりに

鬼柴田・甕割り柴田・知恵柴田…織田信長に仕えた猛将・柴田勝家のあだ名を紹介!【どうする家康】


信長の死後、後継者をめぐって対立する勝家と秀吉。豊宣『新撰太閤記』より

秀吉とは水と油の荒武者

柴田勝家 しばた・かついえ
[吉原光夫 よしはらみつお]

織田家家臣。体は熊のように大きく、声は柱を壊すほどデカい。小心者の家康をいつも怖がらせる。お調子者で機転が利く秀吉と対照的な、めっぽう強い武骨もの。急進的な信長を全身全霊で支える。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより

武勇だけでなく、知恵にもすぐれていたと伝わる柴田勝家。ただしこれらのエピソードは史料的な裏づけに乏しく、後世の創作とも言われています。


それでも「勝家ならやりそうだ」という信ぴょう性があるから今日まで伝わってきたのであり、やはり武徳を兼ね備えた名将だったのでしょう。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」ではそんな勝家の魅力がどう描かれるのか、これからも楽しみですね!

※参考文献:

  • 桑田忠親『豊臣秀吉研究』角川書店、1975年10月
  • 『週刊新説戦乱の日本史17 賤ヶ岳の戦い 柴田勝家』小学館、2008年5月

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