■最後まで戦っていた家康

徳川家康の人生を辿っていくと、1614年に大坂冬の陣、1615年に夏の陣、そして1616年に死去と、最後の最後まで豊臣氏と争っていたことが分かります。

まるで、最終的には豊臣氏を滅ぼすことで、戦国大名として成り上がってきた自分の人生に完全なケリをつけたかのようにすら見えます。


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徳川家康像

しかしそれにしても、梵鐘に刻んだ文字を理由として豊臣氏を滅ぼしにかかった有名なエピソード・方広寺鐘銘事件は尋常ではありません。その背景を知っておかないと、この事件は理解しがたいものがあります。

ことの経緯はこうです。関ヶ原の戦いの後、豊臣氏は地方の一大名程度の地位に没落しました。しかし豊臣氏の威厳はまだ保たれており、慕う大名たちも多くいました。

家康もまた、孫を秀頼に嫁がせるなどして豊臣氏との共存の道を探っています。
もっともあくまでも豊臣氏は家康の配下となるのを拒み続けていました。

■呪詛を刻み込んだ?

そして1614年、有名な方広寺鐘銘事件が起きます。この時、豊臣氏は京都の方広寺を再建しており、大仏殿が完成した折に新しい梵鐘を造らせました。

しかし、この鐘に刻まれた「国家安康・君臣豊楽」という文字が問題でした。バラバラに二分された「家」「康」の名前の二文字に、豊臣を君として子孫繁栄を楽しむ、とも読み解ける文言は、豊臣氏による呪いの言葉ともとれます。

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今も残る「国家安康・君臣豊楽」が刻まれた方広寺の釣鐘

この時、徳川家康の御用学者だった林羅山は、明確に「この銘文は呪詛だ」と断言しています。
また、銘文を考えた臨済宗の僧・文英清韓は豊臣方に極めて近しい人物でした。

実は、文英清韓はこの銘文について直接家康に弁明しています。彼は、「家康」「豊臣」は和歌などで用いられる隠し題として使ったに過ぎないと述べました。

しかし、それにしても家康のことを官職名で呼ばずに「家康」という諱(いみな)を使った点は不自然ですし、そもそも銘文には「右僕射源朝臣家康公」とも書いてあります。悪意あり、と解釈されても仕方がありません。



■ミスによる滅亡

こうして、この事件がきっかけで徳川・豊臣は完全に決裂し、1614~1615年の大坂冬の陣・夏の陣による豊臣家の滅亡へとつながっていったのはご存知の通りです。


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大坂夏の陣屏風(Wikipediaより)

一応、冬の陣と夏の陣の間では一度講和が結ばれているものの、全体の流れを見ていくと徳川家と豊臣家の衝突は避けられないものだったように感じられます。

方広寺鐘銘事件も、家康が難癖をつけたかのように見られがちですが、徳川・豊臣の間に確執があった中でああした銘文を刻むのは不自然ですし、悪意があると見なされるのは当然です。

実際、最近の歴史研究では、この梵鐘の銘文については明らかに豊臣方のミスだというのが定説です。

参考資料
『オールカラー図解 流れがわかる戦国史』かみゆ歴史編集部・2022年

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