『どうする家康』20話「岡崎クーデター」で登場した山田八蔵重英(やまだ-はちぞう-しげふさ:山田八蔵)。米本学仁さんが演じ、大柄な体格と登場シーンの多さから印象に残った方は多いかと思います。


ただ、マイナーな人物のため、生い立ちやその後について知らない方が多いのではないでしょうか。

そこで今回は、岡崎クーデターで活躍した山田八蔵について紹介します。

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大河ドラマ「どうする家康」 公式サイトより

■三河一向一揆では一揆側で戦った

クーデターを防いだ功労者!岡崎クーデター後の山田八蔵のその後【どうする家康】


尾張源氏出身の山田重忠/Wikipediaより

八蔵は尾張源氏の山田氏の末裔で、永禄6年(1563)に起きた三河一向一揆では一揆側として戦いました。一揆鎮圧後は、松平信康の重臣・鳥居久兵衛の家臣として岡崎城に移りました。

ちなみに、尾張源氏は源経基の第二子・満政を祖とし、満政の六代孫にあたる源重遠が平安時代後期に尾張国春日井郡浦野(愛知県名古屋市北部)に住み着いたことが始まりの一族です。

山田氏・葦敷氏・高田氏・小河氏などの分家を輩出し、山田氏の著名な人物には、「戦いに優れ、器量良し。尚且つ民のことを労われる心優しい性格を持った人物」と称賛された山田重忠がいます。



■加担するもクーデターを防いだ八蔵

クーデターを防いだ功労者!岡崎クーデター後の山田八蔵のその後【どうする家康】


松平信康/Wikipediaより

天正3年(1575)、同輩の小谷甚左衛門の誘いを受け、大岡弥四郎たちの武田家内通計画に八蔵も加わります。しかし、八蔵は思いとどまり、計画の内容を信康に報告。これにより、弥四郎たちの計画を未然に食い止めました。当初、信康は計画のことを真に受けなかったといいます。

そこで、八蔵は信康の家来に間者として弥四郎たちに取り入ることを提案。
弥四郎たちが密談をしたことを間者が報告したことで、ついに弥四郎たちの計画が露見しました。

また、計画が発覚した経緯には他説あり、弥四郎たちの計画を事前に知っていた家康が、信濃国に出入りする塩商人に事情や動向を探らせたというのもあります。

■悲運な最期を迎える

八蔵は弥四郎たちの計画を防いだ功績により、碧海郡(へきかいぐん)柿崎に500石の加増を受けました。ほどなくして、同郡大浜や額田郡上地も加増も受け、順調に所領を増やしていきました。

そんな日々を送っていた矢先の天正16年(1588)、八蔵は口論相手によって殺害される悲運な最期を迎えます。

八蔵の死によって所領は全て没収され、山田家は断絶してしまいました。その後、天正17年(1589)に養子の重次が口論相手を斬り倒し、八蔵の仇討ちを達成します。翌年には300石を与えられ、山田家を再興しました。

■最後に

岡崎城の事件で活躍した八蔵の最後は、非運としか言いようのない最後と知って残念に感じます。また、岡崎城の事件は八蔵の報告で発覚したものとあって、八蔵以外に思いとどまる者がいなかったことがわかります。

それくらい、武田家の影響力が凄まじいのと徳川家の脆さがうかがえる事件になったと考えられますね。

トップ画像(左):大河ドラマ「どうする家康」 公式サイトより

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