NHK大河ドラマ「どうする家康」劇中では、しばしば左衛門尉(さゑもんのじょう)と呼ばれていますが、どういう意味があるのでしょうか。
そこで今回は、戦国武将や中世の武士たちが名乗った官途(かんど)名について調べてみました。
ほかの武将たちもよく使っているので、ざっくり知るだけでも時代劇がより楽しめることでしょう。
■左衛門尉=「左の衛門府に仕える三等官」
御所の門を警護する衛士たち(イメージ)
結論から先に言うと、酒井忠次の左衛門尉とは「左の衛門府に仕える三等官」の官職を意味します。
- 左⇒左右(左の方が上位)
- 衛門⇒衛門府(朝廷の門を護衛する部署)
- 尉⇒三等官
カタカナ表記したのは部署によって漢字が異なるためで、衛門府であれば衛門督(ゑもんのかみ)・衛門佐(~のすけ)・衛門尉(~のじょう)・衛門志(~のさかん)となります。
尉と志については更に大尉(だいじょう)と少尉(しょうじょう)、大志(だいさかん)と少志(しょうさかん)に分かれました。
だから酒井忠次についても、厳密には大尉か少尉かのどっちかであるはずですが、詳しいことは不明です(だって私称だもの)。
ちなみに近現代の軍隊における大尉(たいい)・中尉(ちゅうい)・少尉(しょうい)の階級はこれに由来します。
なお、左衛門府に対して右衛門府は「(う、を略して)ゑもんふ」と読み、官職についても右衛門督(ゑもんのかみ)などと読むのが通例です。
■多くは自称(私称)だった戦国武将の官途名

自称から、本物の左衛門督となった酒井忠次(画像:Wikipedia)
ところで、ここまで話を聞いて「ところで酒井忠次って、京都で衛門府に仕えていたの?」という疑問を持たれた方もいるでしょう。
中にはそういう官職と勤務実態が合致していた武士もいるでしょうが、少なくとも酒井忠次が朝廷に仕えた記録はありません。
要するに名前だけの名誉職です。
こういう官職の私称を官途と呼び、代々襲名したり主君から許されたり、自分で勝手に名乗ったりしていたのです。
酒井家では左衛門尉を代々襲名しており、『寛政重脩諸家譜』によれば忠次の父・酒井忠親(ただちか)や兄の酒井忠善(ただよし)が左衛門尉を名乗っていました。
その例にならって忠次も左衛門尉を襲名しましたが、やがて天正14年(1586年)左衛門督に任官しています。これは主君・家康の推挙によって正式に認められたものです。
■さらに地方の大名家では

家臣の任官を朝廷に推挙(するふりを)する田舎大名(イメージ)
ちなみに朝廷とのつながりが薄い地方の戦国大名家などでは、家臣に対して「そなたを肥後守に任ずるよう、わしが朝廷に推挙しておくぞ!」とか何とか言って、勝手に任じていたとか。
実情を知らない家臣はそれをありがたがって「山田肥後守」とか「田中隼人正(はやとのかみ)」などと名乗り、また呼ばれていたのでしょう。
現代の私たちからすれば中身のない、しかも非公式の官職で得意になっていた武士たちの姿は、ある意味で滑稽に見えるかも知れません。
しかし自分の忠義や武功について、主君から「肥後守の官職にふさわしい」と評価してもらったことは間違いなく名誉でした。
あるいは浪人が仕官が少しでも有利になるよう、ハッタリで自称するにしても、戦国乱世を生き抜こうとする気概が好ましく感じられます。
■終わりに

左から左内、甚兵衛、弥助、勇之進(イメージ)
こうした官職の私称は、やがて武家百官(ぶけひゃっかん。武士の間で広まった官職風の人名。
現代でも名前の末尾に「~と(人)」「~すけ(助、介、輔)」「~へい(平)」「~や(弥)」など、その名残が見られますね(名づけた当人たちは意識していないかも知れませんが)。
他にもたくさん出て来るので、「もしかして、この通称も官途名かな?」など意識して時代劇を観てみると面白いですよ!
※参考文献:
- 『寛政重脩諸家譜 第一輯』国立国会図書館デジタルコレクション
- 小和田哲男『日本史に出てくる官職と位階のことがわかる本』 新人物往来社、2009年10月
- 木下聡『中世武家官位の研究』吉川弘文館、2011年11月
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