今回は、穴山信君の武田時代から裏切り、その後の悲運な最期までを紹介します。
穴山信君/Wikipediaより
■御一門衆の穴山氏

信君の父・穴山信友/Wikipediaより
信君のいる穴山氏は、武田氏の7代目当主・武田信武の子である武田義武が、巨摩郡逸見郡穴山(現在の山梨県韮崎市穴山町)に住み、穴山姓を名乗ったことが始まりです。
しかし、在地には穴山氏がおり、義武は養子として穴山氏の当主として据えられたとの説もあります。
そのため、武田姓を称せる御一門衆として、武田宗家を支えました。また、信君と父・穴山信友は信玄と父・武田信虎の娘を正室としていることから、穴山氏は武田宗家との結びつきが特に強かったと考えられます
■外交官として活躍

武田信玄/Wikipediaより
信君は18歳になる永禄元年(1558)に父・信友の出家に伴い、家督を相続しました。初めての戦場での活躍は、永禄4年(1561)の第4次川中島の戦いで本陣を守備したことが記録として残っています。
その後は調略や交渉といった外交面での活躍が目立ち、永禄11年(1568)の駿河侵攻においては、今川側の武将たちの調略を担当。今川家の弱体化と武田家への取次を行いました。
信君が今川の調略を任された背景には、信君の祖父・穴山信風(あなやま-のぶかぜ)が今川に仕えていた時期があり、わずかながら繋がりのある今川家の内情を知っていたからと考えられます。
この他にも浅井氏や六角氏、三好氏などに対する交渉でも活躍し、武田の名外交官と言っても相違ない活躍をしました。
■武田家に見切りをつけ始める

梅雪斉に出家した信君/Wikipediaより
信玄亡き後は勝頼に仕え、天正3年(1575)の長篠の戦いに出陣。
この時から2人の関係に綻びが見え始めていきます。
そして天正9年(1581)、出家により名を梅雪斎(ばいせつさい)と改めた信君は、家督を譲った嫡男の穴山勝千代と勝頼の娘との婚姻を反故されたことに激怒。武田を裏切る決意を固めました。
■裏切りと非運な最期

信君の嫡男・穴山勝千代/Wikipediaより
天正10年(1582)の甲州征伐の際、甲斐一国の拝領と武田の名跡継承を条件に、信君は織田信長に降りました。この時に、人質だった正室の見性院と勝千代を奪還しています。
信長は武田家を滅亡させると、信君を家臣に認めると共に家康の与力として任命しました。
同年5月には信長に謁見のため、家康と上洛。堺遊覧後に京都に向かう途中で本能寺の変のことを知ります。
信君は家康と共に脱出を図りますが、宇治田原で襲撃を受け、死亡しました。信君の死因に関しては自害や、家康を疑い別行動を取った後に家康と間違われて落ち武者狩りに遭い殺害と諸説あります。
信君死後は勝千代が武田家の当主となりました。
■最後に
武田家を武勇ではなく知略で支えた穴山信君。外交官として各国の情勢や状況を知っていたからこそ、勝頼に将来性の無さを見抜いていたと考えられます。
しかし、織田の家臣として新たな人生を歩む時に、死亡してしまうとは不運にも程があるかと思います。まさに裏切りの代償と言っても過言ではありません。
トップページ画像 右:大河ドラマ「どうする家康」公式サイトより
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