■黒船来る!

1853年(嘉永6年)に、アメリカの軍人マシュー・ペリーがいわゆる黒船に乗って日本へ来航しました。

浦賀に来航したこの軍艦はフリゲート艦のサスケハナ号といい、船体に防水・防腐のための黒い樹脂が塗られていたため「黒船」と呼ばれるようになったのです。


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サスケハナ(Wikipediaより)

ちなみにサスケハナとは、まるで日本語のようですが実はインディアンの言葉で「広く深い河」を意味し、主にペンシルベニア州を流れるサスケハナ川が由来になっています。

さてこの黒船が来航したときというのは、私たち現代人の感覚だと「アメリカの軍艦の威容にさぞ驚かされ、庶民は恐怖し大パニックに陥ったことだろう」と思いがちですが、実際にはそうでもありませんでした。

確かにそういう部分もありましたが、むしろ黒船来航は、日本人の好奇心や商魂などを大いにくすぐったようです。

■黒船見物は楽し!?

240年近くも鎖国し続けた日本の人々が、長崎以外で外国船を目にする機会というのはほとんどありませんでした。よって黒船来航時は、この未知の船を見ようと、浦賀周辺に見物人が押し寄せたといいます。中には遠方からはるばる見物に来る人もいました。

これについては江戸町奉行所をはじめ、幕府老中までもが見物禁止の達書を出したほどですから、庶民の熱狂ぶりもなかなかのものです。

江戸時代「黒船」は庶民の好奇心を刺激した!ペリー来航に人々はどう反応したのか


嘉永7年(1854年)横浜への黒船来航の風景画(Wikipediaより)

もちろん、大砲が撃たれた時はさすがにちょっとした騒ぎになりましたが、空砲だと分かると、今度は花火代わりだと言って楽しむ者すらいたとか。当時の庶民は意外に逞しかったのです。

しかし楽しんでばかりもいられません。幕府は、アメリカと通商条約を結ぶか否か考えるにあたり、全国の諸大名に意見を求めますが、この時、庶民からも意見を募りました。

尊王攘夷思想に基づき、外国船を追い払おうという考え方も広まっていたので、この募集に対してはさまざまな意見が寄せられたといいます。




■「俺ならこうやって追い払う!」

庶民から寄せられた、外国船を追い払う方法は『「逷蛮彙議(てきばんいぎ)』という文献にみることができます。

例えば、水中に柵を設けて江戸湾を封鎖し、通せんぼをするもの。あるいは、黒船の底には小窓があるはずなので(実際にはない)この小窓を割って黒船を沈めようというもの。あるいは商人を装って船に入り込み、隙を見て火薬庫を爆破しようというものなどがあります。

他にもユニークなものとして、遊郭の女性たちを使うハニートラップ、大縄を船の外輪に絡ませて航行不能にするアイデア、船の先に銛をつけて突撃して体当たりする案などもありました。まるで特攻です。

もちろんこれらの案は採用されることはありませんでしたが、当時の庶民にはこうした作戦を実行するなら自分が先陣を切りたい、と考える人も多くいたようです。

また、なんらかの作戦実行にあたり必要な素材があれば提供したいと考える人や、黒船来航をビジネスチャンスと考える商人もいました。

江戸時代「黒船」は庶民の好奇心を刺激した!ペリー来航に人々はどう反応したのか


下田の「ペリー艦隊来航記念碑」

私たちは、江戸時代の庶民というと、外国のことを何も知らず権力者からは抑圧され、ひたすら時代に翻弄されていたというイメージを抱きがちです。しかし実際には、もちろん全ての庶民がそうではなかったでしょうが、このように自由で好奇心にあふれた気風もあったようです。

参考資料
日本史の謎検証委員会『図解 幕末 通説のウソ』2022年

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

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