しかし伊賀の国衆が力を合わせてこれを撃退。信雄は這々のていで逃げ帰り、天下の笑い者となってしまいました。
織田信雄(信長次男・浜野謙太)が惨敗!天正伊賀の乱「阿波口の合戦」を紹介【どうする家康】
これに激怒した信長は信雄を勘当。このままではすまさぬと、天正9年(1581年)に10万以上とも言われる大軍を動員して再び伊賀へ攻め込みます。
伊賀国衆は死力を尽くして善戦するも衆寡敵せず、ついに降伏しましたが許されず、人口の三分の一に当たる三万人(非戦闘員を含む)が殺戮の餌食となりました。
今回は強大な織田政権に抵抗した伊賀国衆の一人・百地丹波(ももち たんば)を紹介。彼の足跡を『伊乱記』等からたどってみましょう。
■鬼瘤越の戦い(第一次天正伊賀の乱)

百地丹波は弘治2年(1556年)、伊賀国名賀郡喰代(ほうじろ。三重県伊賀市)の郷士・百地正永(まさなが)の子として誕生しました。
通称は新左衛門(しんざゑもん)、一説に諱(いみな。実名)は百地正西とも言うそうですが、読みは「まさにし」でしょうか。
丹波とは丹波守(たんばのかみ。国司)を意味しており、朝廷から正式に任官したものではない自称(官途名)です。
さっそく天正伊賀の乱における活躍を見て行きましょう。
鬼瘤越の軍将として、柘植三郎左衛門、副将尓は日置大膳亮、九月十六日乃未明に、松ケ島を打ち立ち、一千五百余騎の軍勢を引き具し、勢州榊原、満ヶ野辺の兵士を駆り立て、案内者丹具しありき、明けて十七日の未刻に、大峠、布引ヶ峯、鬼瘤越等の嶮しき道を凌ぎ、馬野口に発向す……鬼瘤越(おにこぶごえ)から攻め込む大将は柘植保重(つげ やすしげ。三郎左衛門)、副将には日置大膳亮(ひおき/へき だいぜんのすけ)。9月16日の未明に1,500余騎の軍勢を率いて出陣しました。
※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」
明けて9月17日の未刻(ひつじのこく。午後2時ごろ)に数々の難所を越えて、馬野口に向かったのです。
……喰代村に百地丹波、百々某、田中氏……これに対する伊賀国衆の中から、喰代村を代表?して百地丹波や百々(どど)某、そして田中(たなか)氏が出陣。彼等の武器は縄や鎌、竹槍など貧相なものでしたが、自分たちの故郷を守るために気合いは十分。数千もの勢力に膨れ上がったのでした。
……各々器具を引きしめ、得道具を所持して馳せ向ふ、彼等の従類郎徒には、なハ、鎌、竹鎗等を一様尓取持たせ、村勢雑兵をかり立て、数千騎を従へ、勇士等ハ馬野口に競ひ来り、勇みかゝつて待ちかけたり……
※『伊乱記』巻之二「信雄卿の従志鬼瘤越に乱入す」
果たして決死の抗戦が実り、伊賀国衆は大勝利。柘植保重は討死、他の戦線においても総崩れとなって潰走します。
伊賀の国士等、此の度の一戦に、信雄卿を初め、郎従名将の歴々を、諸方に追ひ払ひ、或ハ討ち取り、其の外雑人原を討ち取る事、其の数を知らず、物乃見事に打ち勝ちければ、郷士の手柄、国民の本望、いかでか詞に述べ盡し得んと、大悦する事限りなし……【意訳】伊賀の国衆は信雄はじめ名だたる武将たちを追い払い、あるいは討ち取り、ほかにも雑兵などの討死は数えきれないほど。ものの見事に勝利を収め、郷士らは大手柄。伊賀の領民は言葉に尽くせぬほどの大喜びです。
※『伊乱記』巻之二「伊賀国民栄花の事」
サブタイトルにもあるようにこれが伊賀の国民(くにたみ)にとって、絶頂の栄華でした。
■柏原城の戦い(第二次天正伊賀の乱)

落合芳幾「太平記英勇傳 庭五郎左衛門長秀」
しかし、伊賀の栄華も長くは続きません。ついに天正9年(1581年)に信長が本気で攻めて来たのでした。
百地丹波はこの時、柏原城(三重県名張市)に駆けつけ、城主の瀧野吉政(たきの よしまさ。十郎)と共に立て籠もります。
……喰代村の百地丹波も當城にかけ籠る、其の侍の都合四百三十八人、雑兵合せて一千二百余人、総て一千六百余人、右の外妻子童等記たるに遑奈し、此の如く尓死武者多く楯籠り、互に義を励まして一戦の時刻を、今や遅しと待ちかけたり……【意訳】柏原城に籠もった侍(郷士)は438人、雑兵1,200余りを加えて総勢1,600余りとなちました。また彼らの妻子については記す暇もないほどです。
※『伊乱記』巻之七「柏原合戦の事」
寄手の大将は丹羽長秀(にわ ながひで)。大軍を擁して攻めかかりますが、堅牢な城はなかなか抜けず、城からの弓勢に多くの死傷者を出してしまいます。
……瀧野十郎、近地、中野、百地丹波、吹井大三郎等が放つ矢に寄手多く射伏せられたり……さらに伊賀者の習いで、忍術を心得た者が数十名ばかりおり、隙を衝いてしばしば夜襲を仕掛けました。
※『伊乱記』巻之七「柏原合戦の事」
……只奈らぬ伊賀者の慣にて、忍の術を得たるもの数十人有りしが、城外所々の焼き篝の暗きを窺ひ、夜々幾度か忍び出でゝ、諸大将の陣営に夜討をかけて焼き立つる奈ど、種々の兵術を以て寄手を悩ま寿事多かりき……具体的に誰とは書いていないため、百地丹波がこの中にいたかはハッキリしません。いずれにしても、寄手が大いに悩まされたのは間違いなさそうです。
※『伊乱記』巻之七「城兵智略寄手を驚かす事」
しかしこうした奮戦も虚しく糧食も底を尽き、10月28日に瀧野吉政が信雄に降伏。嫡男の瀧野亀の助(かめのすけ。当年13歳)を人質に出して城を明け渡したのでした。
■エピローグ・伊賀国撫斬(なでぎり/ぶざん)の事

伊賀の地で繰り広げられた大虐殺(イメージ)
寄手の軍勢、去々年卯の秋、信雄卿を始め、武将のかたがた丹耻辱を與へつる其の遺恨深きに依て可、今般先年の欝憤を散せんと、所々の要害を破却しては焼き払ひ、神社仏閣を打ち壊り、僧侶男女の別ち奈く、根を断ち葉を枯らし、當るを幸ひに草を薙ぐ如く殺害しける程に、親の最後、子の向後如何と問ふべき方も奈し、運に任かせて近江路や、大和山城河内に落ち行き遁るゝ方もあり、紀の路の内に影を匿くし、或は伊勢より志摩に漂泊し、乞食と奈るもあり、四国中国にさ寿らひて互に行衛知らぬひの、筑紫に降る者も阿り、東関北陸山川の遠路を凌ぎ捕はれて、夫妻の別れと成るも阿り残る諸民討たれて死寿る輩は、一州の過半に及びたり……かくして終焉を迎えた天正伊賀の乱。しかし、悲劇はここからでした。
※『伊乱記』巻之七「撫斬の事」
「「「一昨年の怨み、晴らさでおくべきか!」」」
惨敗を喫して恥をかかされた鬱憤ばらしとばかり、大虐殺を始めた織田軍。
伊賀者たちは散り散りとなって各地へ逃れ、四国中国果ては筑紫(九州)、北陸関東まで逃れたそうです。
大殺戮の結果、伊賀の人口は三分の一が喪われたとも、過半数が殺されたとも伝わります。
■終わりに

その後も活躍した伊賀者たち(イメージ)
百地丹波は逃げ切れずに討ち取られたとも、あるいはどこかへ逃れたとも言われますが、その後の活動についてはハッキリしません。
一説では、寛永17年(1640年)まで生き延びたと言われます。享年85歳。
また後世、大泥棒として知られる石川五右衛門(いしかわ ごゑもん)の師匠・百地三太夫(ももち さんだゆう)のモデルにもされました。
※同一視する説もありますが、それを裏づける史料は発見されていません。
これも人々から愛され、その忍術を恐れられた故でしょう。
果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」にも登場するようですが、どんな活躍を見せてくれるのか、楽しみですね!
※参考文献:
- 『伊乱記』国立国会図書館デジタルコレクション
- 久保文武『伊賀史叢考』伊賀郷土史研究会、1986年12月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan