織田を捨て、秀吉を選んだ猛将

池田恒興 いけだ・つねおき(勝入 しょうにゅう)
[徳重聡 とくしげさとし]

織田家の重臣。本能寺の変後、清須会議で信長の後継者のひとりとして頭角を現す。
小牧・長久手の戦いでは織田信雄を裏切り、恩賞狙いで秀吉方として参戦。徳川軍を窮地に追い込む。

※NHK大河ドラマ「どうする家康」公式サイト(登場人物)より。

劇中では清須会議でいきなり登場してきた感のある池田恒興。しかし彼は決してポッと出ではなく、織田家に代々仕えた歴戦の勇士でした。

今回はそんな池田恒興の生涯をたどり、大河ドラマの予習をしたいと思います。

■数々の合戦で武功を重ねた猛将

小牧・長久手の戦いで討死!池田恒興(徳重聡)の生涯をたどる【...の画像はこちら >>


池田恒興(画像:Wikipedia)

池田恒興は天文5年(1536年)、織田家臣である池田恒利(つねとし)と養徳院(ようとくいん。俗名不詳)の子として誕生しました。

母の養徳院は織田信長(演:岡田准一)の乳母を務めたため、恒興と信長は乳兄弟の関係に当たります。

通称は勝三郎、幼いころから織田信秀(演:藤岡弘、)に仕え、元服して初め恒興と称しました。

星崎城の合戦において武勇をあらわし、信の字を与えられて池田信輝(のぶてる)と改名。その後も信長に仕えてしばしば武功を重ねたのです(※便宜上、ここでは池田恒興で統一します)。


弘治元年(1555年) 織田彦五郎と海津で戦い、一番首級を獲る。

弘治3年(1557年) 信長の実弟・織田信勝を暗殺した際トドメを刺す。

永禄元年(1558年) 浮野・名古屋の合戦に軍功を立てる。

永禄3年(1560年) 桶狭間の合戦で武勲。

永禄5年(1562年) 美濃の斎藤竜興と戦い、負傷するも敵将を討ち取る。

元亀元年(1570年) 姉川の合戦に従軍・活躍。

これらの功績によって尾張犬山城主となった恒興。更に比叡山の焼き討ち(元亀2・1571年)や長島一向一揆・槇島城の合戦などに参陣しました。



天正6年(1578年)には謀叛を起こした荒木村重(あらき むらしげ)を摂津国有岡城に攻め立て、天正8年(1580年)に摂津国尼崎城・花隈城を攻略。これらの戦功によって有岡城(伊丹城)を与えられます。

天正10年(1582年)6月に信長が本能寺で横死を遂げた際、恒興は中国戦線(毛利攻め)から引き返してきた羽柴秀吉(演:ムロツヨシ)と合流。信長の仇討ち合戦である山崎の戦いで武功を立てました。


『太閤記』によればこの時の論功行賞により、恒興は摂津国大坂・尼崎・兵庫12万石を賜わったそうです。

信長の菩提を弔うために出家して勝入と号した恒興は、織田家の宿老として信長の後継者選び「清須会議(清洲会議)」に出席。秀吉らと共に三法師(後の織田秀信)を推します。

天正11年(1583年)の賤ヶ岳合戦で柴田勝家(演:吉原光夫)が滅ぼされると、ますます秀吉に接近した恒興。翌天正12年(1584年)に秀吉が徳川家康(演:松本潤)と対立した小牧・長久手の合戦では当然のごとく秀吉に与しました。

ここで勝利を収めれば尾張一国を与えてくれる。そうと聞いて大張り切りの恒興でしたが、4月9日の岩崎城攻めにおいて嫡男の池田元助(もとすけ)、同僚の森長可(もり ながよし)ともども討死してしまったのです。享年49歳。

■終わりに

小牧・長久手の戦いで討死!池田恒興(徳重聡)の生涯をたどる【どうする家康】


首級を奪われてしまった池田恒興(池田勝入信輝)。「小牧長久手合戦図屏風」より

……敵は九日の朝池田父子先陣して。……名あるつはものどもあまたうたれ。秀次はからうじて落延たり……

※『東照宮御実紀』巻三 天正十二年「小牧山役(長湫戦、大戦之四)」

以上、池田恒興の生涯を駆け足でたどってきました。
ちなみに恒興の次男・池田輝政(てるまさ)は家康の次女・おふう(督姫。北条滅亡後に再婚)を娶っています。

果たしてNHK大河ドラマ「どうする家康」でも小牧・長久手で壮絶な最期が描かれるであろう池田恒興。徳重聡の熱演に期待ですね!

※参考文献:

  • 『新訂 寛政重修諸家譜 第五』続群書類従完成会、1964年11月
  • 谷口克広『織田信長家臣人名辞典 第2版』吉川弘文館、2010年11月

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ