早川のモデルとなった植木枝盛(うえきえもり)は、土佐の自由民権運動を牽引した1人です。「民権数え歌」などを残し、日本の歴史にも足跡を残しています。
枝盛がどのような生涯を送ったのか見ていきましょう。
■土佐藩の祐筆の子として生まれる
安政4(1857)年2月14日、植木枝盛は土佐国土佐郡井口村で土佐藩士・植木直枝の嫡男として生を受けました。
父・直枝は4人扶持24石と小身の武士でしたが、小姓組格に属して藩の祐筆(秘書)も務めた人物です。比較的高い教養を持っていたことから、枝盛の人格形成に影響を与えたと考えられます。
元治元(1864)年、8歳の枝盛は習字を習い始めます。やがて土佐藩の藩校・致道館にも通い出し、本格的に学ぶ身となりました。
枝盛は藩内でも屈指の学識を持っていたようで、周囲から将来を期待されていたようです。
明治6年(1873年)には、土佐藩の海南私塾の生徒に抜擢。同校で学んでいきます。
しかし軍人養成学校と知って同年9月に退学。
明治六年の政変。西郷隆盛と大久保利通らの対立で政府は二分された。
■政治や弁論活動との関わり
鬱屈した日々を送るかと思いきや、同年に中央政府で内部争いが勃発。征韓論争に敗れた西郷隆盛らが下野するという事件が起きます。
枝盛はこの明治六年の政変に触発されて上京を決意。当時からキリスト教に関係する『天道溯原』を愛読するなど、西洋の文化に触れていました。
明治8年(1875年)、枝盛は19歳で上京。慶應義塾内や三田演説館の「三田演説会」に頻繁に参加していきます。
彼は明六社にも加わり、慶應義塾の創始者・福澤諭吉に師事。学ぶとともに、自分自身で修文会を組織するなど活発に動いていきます。
さらに同年からは『郵便報知新聞』、『朝野新聞』、『東京日日新聞』などに投書を開始。
枝盛が投書した一文の「猿人政府」が新聞紙条例に抵触。明治9年(1876年)3月より2ヶ月間収監されてしまいます。
朝ドラらんまんでは、集会を開いた早川逸馬が仲間と共に囚われるシーンがありましたね。
あのシーンはこの筆禍事件がモチーフにしていると考えられます。
逮捕された枝盛でしたが、政治に関する情熱は失っていませんでした。
同時期からキリスト教への興味を強め、耶蘇教会に通い始めます。加えて『思想論』などの著作を表すなど西洋の近代思想に傾倒していきました。

福沢諭吉。慶應義塾を創始して、日本の近代化に努めた。
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