今回は、因縁深い戦いがなぜ起こり、なぜ真田氏が勝てたのかということを焦点に当て、第一次上田合戦をご紹介します。
真田昌幸/Wikipediaより
■きっかけは天正壬午の乱後の沼田領割譲

徳川家康/Wikipediaより
真田家は真田昌幸の父・真田幸隆の頃より武田家の家臣として武田信玄に仕えていました。
武田家滅亡後は織田信長と北条氏直に仕え、次いで徳川家康に仕えます。家康に寝返ったのは、旧武田家臣の依田信蕃(よだ-のぶしげ)が一枚噛んでいました。
そして、天正10年(1582)の天正壬午の乱では、家康に味方し後北条氏と上杉氏と戦いました。
この戦いは織田信雄の仲介で、北条氏直に家康の娘・督姫と嫁がせることと後北条氏に上野国沼田(現在の群馬県沼田市)の地を割譲する条件の和睦を結び、幕を閉じます。

北条氏直/Wikipediaより
しかしながら、沼田の地は真田氏が自力で得た地であったため、昌幸はこの内容に応じず、沼田を巡って後北条氏と戦いました。
痺れを切らした家康は、天正13年(1585)に引き渡しを求めるも昌幸は拒否し、敵だった上杉氏に寝返りました。
家康はこのことを知ると、昌幸が城主の上田城目掛けて約7000人の兵を向かわせました。
■圧倒的な数を前になぜ勝てたのか?

真田信之/Wikipediaより
7000人の徳川勢に対して、真田勢は2000人余り。3倍以上の兵数に昌幸は力攻めはせず、地の利を生かした戦法で翻弄しました。
戦い方としましては、徳川勢を上田城二の丸までおびき寄せた後に一斉射撃。次いで城下町に火を放ち、視界を遮った上での伏兵と別動隊として砥石城で待機していた真田信之の奇襲を仕掛けました。
また、あらかじめ設置していた千鳥掛けの柵(進行方向に向けて柵を設置し、撤退時に柵が返し刃のようになり抜け出せにくくなる設置方法)で撤退しにくい状況を作りました。
辛うじて撤退できた徳川勢は退路であった神川を渡河するも、川の勢いをせき止めていた堰を破壊。増水した川に飲まれ、多くの溺死者を出させました。
この戦いでの死傷者は、真田勢40人の死者に対し徳川勢は1300人。
また、天正13年(1585)11月に徳川家家臣の石川数正が豊臣家に出奔したことを機に徳川勢は全軍撤退し、昌幸たちの圧勝で幕を閉じました。
■その後の真田家

上杉景勝/Wikipediaより
その後は、上杉景勝の仲介で豊臣秀吉の家臣となり、家康と和解。そのあかつきに徳川の与力大名となりました。
それのおかげもあり、信之と本多忠勝の娘・小松姫との婚姻が成立しました。第一次上田合戦を経て、真田氏は大名としての地位を確立したと言っても過言ではありません。
■最後に
第一次上田合戦は武田や徳川の一家臣であり、小領主にすぎなかった真田氏が大名に出世できた歴史的な戦であります。
また、真田軍を指揮した昌幸の知略が評価されるきっかけともなり、真田の名前を世に知らしめた戦でもあります。
また、徳川は真田の恐ろしさを知るきっかけになりつつも、第二次上田合戦や大坂の陣で再度真田と戦うことになるので、この戦いで両家の長らく続く因縁が始まったと言っても過言ではありません。
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