また、徳川家康を義父に持ち、後北条家再興のために家康に協力を持ちかけたこともあまり知られておりません。
そこで今回は、家康の婿・氏直が歩んだ生涯をご紹介します。
北条氏直/Wikipediaより
■信玄を祖父に持つ氏直

武田信玄/Wikipediaより
氏直は永禄5年(1562)に氏政と黄梅院の間から生まれました。黄梅院は武田信玄の娘のため、信玄も氏直の祖父となります。
また、氏直には兄の新九郎がいましたが、氏直が生まれる前に亡くなっているため、嫡男として扱われました。
永禄12年になると、衰退した今川家の次期当主として今川氏真の養子となる話が上がります。
しかし、関係が悪化した武田氏の駿河侵攻による駿河国の支配。併せて、氏真の正室・早川殿(氏直の叔母)が今川範国を生んだことが重なり、今川の次期当主としての話は破談となりました。
その後15歳となる天正5年(1577 )での初陣で勝利を勝ち取ります。
相手は曾祖父の氏綱の代から敵対関係だった里見義弘で、この戦いを機に両者は同盟関係を結びました(房相一和)。
■家督相続と家康と対立

徳川家康/Wikipediaより
そして天正8年(1588)、氏政の隠居に伴い家督を相続。後北条家五代目当主となった氏直は、手始めに織田信長死後に統治されなくなった武田の遺領を巡って織田軍と戦います。
天正10年6月に起きた神流川の戦いで滝川一益を制し、信濃国西部を獲得しました。
氏直と家康の戦いは天正壬午の乱と呼ばれ、決着がつかないまま織田信雄の仲介で和睦しました。
この時、氏直の元に家康の娘・督姫が嫁ぎ、家康の婿となります。
■父と叔父と対立

北条氏政/Wikipediaより
同時に家康と同盟関係になった氏直は、勢力拡大のため常陸の佐竹義重や下野の宇都宮国綱の領土に侵攻しました。
そんな折、豊臣秀吉が発令した惣無事令によって勝手な戦ができないことを受け、氏直は来るべく秀吉との戦いに備え軍備増強しつつも、家康の要請で叔父の北条氏規(ほうじょう-うじのり)を上洛させています。
この時の後北条家は氏直や氏規が穏健派だったの対し、父の氏政や叔父の氏照は強硬派でした。
強硬派との対立と秀吉からの圧力、内と外での問題により緊張状態が続く中、天正17年(1589)に家臣の猪俣邦憲(いのまた-くにのり)が真田氏の支城・名胡桃城を乗っ取る事件が起こります。
氏直は義父の家康にこの事件についての弁明を依頼しますが、上洛していたためできずに終わります。
結局、後北条氏は惣無事令違反の罰により、秀吉を敵に回してしまいました。
■小田原征伐勃発

豊臣秀吉/Wikipediaより
天正18年(1590)、ついに秀吉による小田原征伐が勃発。氏直は戦いに備えて小田原城や支城を修繕や改装を加えました。
しかし、秀吉が率いる大軍に成すすべなく、数々の支城の陥落や小田原城の包囲と四面楚歌となってしまいます。
そして、黒田官兵衛の説得により、7月に降伏。自らの切腹と引き換えに兵たちの助命を乞いました。
秀吉は氏直の潔さと総大将としての姿勢に感心し、家康の婿ということで高野山追放の処分で済まされます。
逆に、氏政と氏照は小田原征伐の責任を取るために切腹を命じられました。
■無念の病死

徳川家康/Wikipediaより
高野山追放後、氏直は家康を通して秀吉に口利きを依頼します。そして、天正19年(1591)8月には秀吉から関東1万石を与えられ、豊臣の大名として返り咲きます。
しかし、それをあざ笑うかのように、11月に氏直は天然痘によって30歳で命を落としました。
氏直死後の後北条家は氏規の子・北条氏盛が氏直の後を継ぎ、河内狭山藩(現在の大阪府大阪狭山市狭山)として幕末まで存続しました。
■最後に
後北条家の五代目当主として秀吉と戦った氏直。秀吉の実力を知っていたから叔父を上洛させ、戦いを回避しようとした先見の明があったように感じられます。また、家康の婿という立場を大いに利用し、大名として帰り咲いているので、氏直の実力は確かです。
仮に氏直が長生きしていたら、婿ということを利用して徳川の有力な家臣としてそれ相応の地位を得ていたかもしれません。
トップ画像(右):NHK大河ドラマ「どうする家康」公式HPより
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan