■山県有朋はなぜ維新志士となったか

明治・大正期を代表する政治家であり、「超」がつく大物でもある山県有朋(やまがた・ありとも)。彼は二度内閣総理大臣を務めた偉人でもあるのですが、長らく歴史上で「悪役」のイメージを負わされ続けてきました。


明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【前編】~「...の画像はこちら >>


山県有朋(Wikipediaより)

しかし、そうしたイメージはおいておいて、今その人生を冷静な視点で見ていくと、山県という人は日本の近代的軍隊・近代官僚制・そして地方制度など、近代日本の基礎となる部分を確立した超一流の政治家だったことが分かります。

まず、山形有朋という人物を説明する上で欠かせないのが「身分」です。武士で石高が少ない者を下級武士などと言ったりしますが、実は下級武士にもさらに下がいます。まず「足軽」で、そしてそのさらに下が「中間」と呼ばれる武家屋敷の使用人です。こうした人も一応、分類上は武士ということになります。実は

山県有朋は、このような「中間」層の出身でした。厳密に言えば蔵元付中間組という層です。後に原敬が、山県のことを「あいつは足軽だから」と揶揄したという逸話がありますが(ちなみに原敬は名門出身)、本当は山県は足軽以下の身分だったのです。

こんなエピソードもあります。彼が少年の頃、雨の中で上士とすれ違った際、上司の袴に泥水が撥ねたため泥の中で手をついて土下座をさせられたというのです。これが実話なのかどうかは不明ですが、いずれにせよ、武士の中でも最下層に近い身分だったことが、彼を倒幕と明治維新に駆り立てた原因の一つになったのは間違いないでしょう。



■松下村塾から奇兵隊へ

そんな彼がのし上がるきっかけになったのは、かの松下村塾で吉田松陰の門下に入ったことでした。


山県はもともと1838(天保9)年、長門国萩城下川島庄の生まれで、21歳の時には藩から京都へ派遣されて尊王攘夷思想の洗礼を受けています。そして藩に帰ってきてから久坂玄瑞の紹介で松下村塾へ入門したのです。

彼が塾生だった期間はごく短いものでしたが、吉田松陰からはかなり強く影響を受け、生涯に渡って師と仰いでいたといいます。

こうした縁もあって、山県は志士たちと行動を共にするようになりました。さらに奇兵隊の幹部にもなり、軍勢を率いて倒幕運動にあたります。1864(元治元)年と1866(慶応2)年の長州戦争、さらには戊辰戦争でも活躍しました。

明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【前編】~「徴兵制」施行まで~
奇兵隊時代の山県(Wikipediaより)


この、奇兵隊からスタートした「軍人」としての経験と知見が、その後の日本での近代的軍政づくりへとつなかっていきます。



■兵部大輔へ

さて、1868年に明治維新が達成され、日本に新たな軍隊を創設しようとしたのは大村益次郎です。彼も幕末期に長州藩に出仕し、長州征伐と戊辰戦争で指揮を執った優秀な軍人政治家でした。現在の防衛相にあたる兵部省の大輔(次官)だった大村はしかし、反対派に暗殺されてしまいます。

明治維新の超大物政治家・山県有朋の人と業績を探る【前編】~「徴兵制」施行まで~


大村益次郎(Wikipediaより)

その後は前原一誠が継いだものの、彼は一年足らずで辞職。こうして、押し出されるような形で山県は軍のトップである兵部大輔の地位を手に入れたのでした。


その後、彼は陸軍中将・そして近衛都督へととんとん拍子に出世していき、日本の新たな陸軍を創設する中心的役割を負っていくことになるのです。

彼は、大村益次郎が果たせなかった帝国陸軍建設を実行し、まず徴兵制を施行しました。

山県が徴兵制度にかけた信念はかなり強力なものでした。彼にはもともと奇兵隊での経験や、西欧諸国の兵制を視察した際の知見がありましたが、徴兵制の根底には彼なりの「平等思想」があったと言えます。

もともと山県は、旧武士層を「抗顔座食」の士と批判したことがあり、武士の身分的特権は打破しなければならない、そうすることで兵農合一の土台が作られ、不当な身分差別をなくすことにつながると考えていたのです。徴兵制はそうした信念の現実化したものでもありました。

彼のこうした信念は珍しいものではなく、当時の明治維新の功労者たちのうち、下級武士出身の者たちは皆、同じ考えを持っていたといいます。

【中編】へ続く

参考資料
八幡和郎『歴代総理の通信簿』2006年、PHP新書
宇治敏彦/編『首相列伝』2001年、東京書籍
サプライズBOOK『総理大臣全62人の評価と功績』2020年

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